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この長編小説は、古文書に記述されたことに基づいて書かれたフィックションです。現実に起こった事件や時代背景を理解してもらえれば幸いです。常識を否定した新しい出会いがあるでしょう。ダウンロードの後、オフラインにてゆっくりとお読み下さい。

この小説は、1528年(享祿元年)インド近海で遭難した坊津の乗組員達、愛する人と広い海の底に今も眠る多くの人々に捧げる。

 

 

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    風を仰いで

 

       一

北西の寒風が、港に容赦なく吹き付ける。波飛沫は町並みに、まるで雨の如く降り注いでいる。錨を打ち、並ぶ貿易船は、何かを叫ぶかのように、波間に軋んでいた。

廻船問屋である中村文左衛門は、栄松山興禅寺住職覚龍の話に、聞き入っている。興禅寺は波を打ったかのように静かで、覚龍の部屋もまた、波が打ち寄せる如く熱っぽい声が響いていた。

「それで、いつ出帆なされるのですかな?」

「年が明けるのを待ち、鴬の声を聞きましたら、出帆致そうかと」と、文左衛門は、覚龍の質問に、難しい顔を見せて答える。

 覚龍は軽く頷き、「あのような時化では、危のう御座いますからなあ〜 その方が、宜しかろう」と、窓に目をやった。

坊の浦を一望できる寺ケ崎近くの高台に、優美な姿を見せる栄松山興禅寺は、唐客の香華院として、唐人が建立したものである。観音堂は、四間四間の唐戸であり、色彩もそして材木等の全てが、唐から運んで来たものである。観音は、正観音で定朝作と云われ、非常に霊験あると伝えられ、祈りの効き目があり、海上安穏のお札を出していた。

関白近衛家の荘園であった時代、又その後に於いても興禅寺を通して坊津は朝廷と深い係わりがあった。その興禅寺辺りを、菖蒲谷と称し、文左衛門は、そこに住み、廻船問屋を営み、自ら船頭として持ち船の金現丸に乗船していた。

「明国が、貿易を禁止してから、商売がし難うなりまして・・・」と、文左衛門は、深い溜め息をつく。

大内氏と細川氏の遣明船をめぐる抗争は、応仁の乱(1480年、文明12年)終了後も、益々卑劣を極めていた。

第九次遣明船派遣に於いて、頂点に達し、大内義興の使者僧宗設らが、管領細川高国の使者僧瑞佐らと相前後し、寧波に入港して、互いに次席を争った。

その時、細川方は、密かに明史倭太監頼恩に賄賂を送って、先手を取った。それを聞いた宗設らは、烈火の如く怒り、従者百十余人を指揮して細川船を襲撃した。瑞佐を斬り焼き討ちにし、更に、市舶司以下数名を斬り、財貨を略奪して帰国した。いわゆる、寧波の大乱(1523年、大永3年)である。それ以来、明国は、寧波や泉州の市舶司を廃止して、日本との貿易を禁止していた。

「取り締まろうとしても、無理な話ではないですかな? お互いに、交易を計った方が、得策でしょうなあ〜」

「仰る通りなのですが・・・・・」

 住職覚龍の話は、尤もである。腕組みをした文左衛門は、深い溜め息をついた。

「薩摩にとっても、膨大な収入がなくなり、痛手で御座いますからなあ〜 唐船奉行も、明国との密貿易に関しては、目を瞑っておられるようですが?」

「はい、本田様には、いつも御迷惑をお掛け致しております」と言って、文左衛門は、出されてあったお茶を啜った。

薩摩国は薩州の西南端に位置する坊津は、遣明船の経由航路である南海路の主要港でもあり、坊の浦、泊浦、久志浦、秋目浦が、飛び石の如く点在している。南海路とは、堺から土佐沖を通り、坊津に停泊した後、琉球列島を南下して寧波に至る航路である。かつて幕府の管理下にあった坊津には、お船奉行が置かれていた。細川氏の、南海路を勢力圏にして、明国との貿易を独占しようとの思惑と、島津氏の、対明貿易ひいては南方発展への思惑が一致して、一滴の血を流すこともなく、棚ぼた的に、坊津を手に入れた薩摩は、お船奉行に代わる唐船奉行を置いて、統制を計っている。

明国に於いては、日明間の通商貿易を、全面的に禁止することは不可能に近く、倭寇(日本の貿易船)が、益々蔓延っていた。

そんな中にあって、国内の政治的対立は、対明貿易の独占権を得ようとしていた薩摩にとっては、入唐道(にっとうどう)である坊津の、地の利を得たようなもので、密貿易に目を瞑り、坊津の廻船問屋達を後押しすることで有利に運ぼうとしていた。

「失礼致します」と言って、僧侶の成海が、部屋に入って来た。上座に座る覚龍の近く、文左衛門の右横顔を見て文左衛門に対面して正座をすると、文左衛門に深く頭を下げた。それに応えて、文左衛門も成海の方に振り向き、軽く会釈をする。

「乗組員達の休養にもなりますかな? この時化は・・・」成海は、港の方に目をやると、文左衛門に笑みを見せた。

「休養になれば宜しいのですが、一旦坊津を出帆すれば、長い航海になります故、若い者達は、居酒屋などにて、鬱憤を晴らしているようで御座います。皆の迷惑にならねば、宜しいのですが」と、肩を落とす。

「まあ〜 若い故、致仕方御座いますまい」住職覚龍は、<文左衛門も若かりし頃は、そうであったろう>と、微笑む。

「板の下は、何とやらと言いますからねえ〜 航海中のことを考えますと、迷惑にならぬのであれば、大目に見てあげた方が宜しいでしょう」と、成海も、文左衛門に微笑む。「呂宋(フイリッピン)や竺土(インド)の様子は、如何で御座いますか?」と、海外のことが気になり聞いた。

「相変わらずで御座いますが、ポルトガル、オランダ等の南蛮船と、積み荷を争う事が、多くなりました」

「ほう〜 積み荷が・・・左様で」と、考え込むように、腕を組む覚龍である。成海は、「うむ〜」と唸るだけである。

明国の南方地帯を南蛮と称しているが、当時日本では主にヨーロッパのことを、南蛮と呼んでいた。

「我らも、胡椒を手に入れんと、あの手この手を使うので御座いますが・・・奴らは、我ら以上に、胡椒を欲しがるので御座いましてなあ〜」

「何故に、あれ程の辛い物を・・・?」成海は、不思議な顔を見せた。

「豚や牛などの類の肉を、主食としてましてな、それに使うようで御座います」

肉を食する話など、仏に仕える者達の前では、禁句である。覚龍と成海は、<何と、辛い物で味をつけるとは>と、目を丸くして、驚く。

驚いた二人の顔を見て、文左衛門は、肩を上下に震わせて笑った。笑われた覚龍と成海は、互いに顔を見合わせて呆気に取られる。二人も又、訳も解らずに文左衛門に釣られて笑っていた。

その頃、金現丸乗組員達は、文左衛門達の予想通りに、宴会の真っ最中であった。

まだ昼間だというのに、女達を前にして、飲めや歌えの大騒ぎである。女給を片腕に抱く者、茶碗を箸で叩いて歌う者、酒の飲み比べをしている者等、賑やか過ぎる居酒屋『唐吉楼』は、貸し切り状態であった。

「女将!」「あいよ」

直吉は、いつものように、お鶴に手を上げて合図をする。その合図に乗組員達は、前にあった二組の机と椅子を、隅の方に寄せた。

「直さん、はいよ」と言って、お鶴は、太鼓を直吉に手渡した。受け取った直吉は、捻り鉢巻きをすると、椅子が除けられて広くなった上隅の場所に胡坐をかいて座ると、太鼓のばちを振り上げてリズムを打ち出した。騒めきが止み、皆は聞き入る。

 テン、テテン、テンテン、テン・・・・・「はあ〜 えっさ、えっさ、えっささあっ」 テン、テテン、テテン、テンテンテン・・・ 「はっ」直吉の掛け声は、太鼓の音に乗り、威勢が良い。静かになった部屋に、響き渡る。

「ワラジ!」と、直吉は大きな声で呼んだ。

「おお〜」と言って、捻り鉢巻きの男が、直吉の前に出ると、両手をあげて横に振りながら、ゆっくりと歩くように踊る。太鼓のリズムに合わせて、男は滑稽な踊りを踊る。

皆は、踊りを見ながら、酒を飲み始めた。男の踊りに、笑いが溢れ、騒めきが戻った。女将お鶴や女給のお里は、<ワラジ>と、皆が呼んでいるのは、きっと顔が、草鞋に似ているからであろうと、「そう云えば、似ているわね」と、助蔵の顔を見詰めては、可笑しな踊りも手伝って、大笑いをする。

 ワラジとは、竺土の親友達が、人気者の助蔵に付けてくれた、ニックネームである。

何を勘違いしたのか、お鶴達は、助蔵の顔を見る度に、あの足に履く草鞋を連想して、<平ぺったい顔かしら?>と、思い出す度にクスクス笑うのであった。

親友だけに許された呼び名であるとは知らない、お鶴達である。

直吉の親友である善兵衛が、踊りの中に入って来た。持っていた手拭を、捻って鉢巻きをすると、助蔵と一緒に踊りだした。

太鼓のリズムは、向かい合わせに踊る助蔵と善兵衛に、愉快に弾む。他の乗組員達も、入れ代わりに踊る。直吉も、他の乗組員と太鼓を変わると、踊りの輪の中へと入って行く。飲み交わす酒も、進んでいる。打つ人に因って、太鼓のリズムと強さが、少し変わる。太鼓の音色も又、代わる代わる打つ乗組員達に因って、賑やかさが絶えることはない。宴会は、日の暮れも知らずに、いつになく盛り上がっていった。

何時の間にか、風は止み、静かな港の佇まいを見せる。浮かぶ貿易船に、灯りが燈り、その輝きをゆらゆらと海に揺らす頃、海岸通りの居酒屋などのお店にも、灯りが燈り始めていた。

 薩摩の役人向井覚右衛門と大野忠永は、役職を終えると、唐吉楼の暖簾を潜った。

太鼓のリズムに威勢の良い声と騒めきに、二人は一瞬驚きを見せた。

座る所もなさそうである。お店を見回した覚右衛門は、溜め息をついた。

お店を出て行こうとした覚右衛門に、お鶴は、「いらっしゃい!こちらへどうぞ!」お鶴の叫ぶような声に、騒めきが止んだ。

「こちらへどうぞ!向井様」と、再度お鶴は、空いている一段高い座敷の席を指した。

踊りも、太鼓の音も止み、お店の中は静かになった。視線を受ける覚右衛門達である。

「女将、賑やかじゃのお〜 拙者達も良いのかな? 邪魔をしたようじゃが・・・」

「向井様達ですもの、誰がお断りしましょうか?ささっ、こちらに」

 覚右衛門達は、お鶴の案内した畳の席に上った。女給が、早速酒を運んで来る。

「さっ、どうぞ、おひとつ」と言って、徳利を手に、隣に座ったお鶴は、覚右衛門にお酌をする。杯に溢れるくらいに注がれた酒を、覚右衛門は、一気に飲み干す。忠永へとお酌をするお鶴である。忠永は、軽く頷いて応える。

 替わったばかりの直吉の打つ太鼓の音が、静かな部屋を走り回る如くに鳴り響く。何時の間に、女装したのであろうか? 知らぬ間に、女形に変装した善兵衛の踊りに、響動めきが起こった。次に、助蔵が裸に、ふんどし姿でその踊りに入る。太鼓のリズムに合わせて、二人は踊りだした。覚右衛門達の出現に、遮断されていた賑やかさが元に戻り、笑いを集めている。

「女将、一緒に三味線でも弾いたらどうじゃな?あれでは、猿回じゃあないかな?助蔵もようやるわ・・・」と、覚右衛門は、お鶴を見て小さく笑い、酒を飲み干す。

「私もね、三味線を弾きましょうか? と言うのですけどね・・・要らないんですって」

「何? 要らぬと・・・ふむ〜 笑われたいのであろうか?」と、首を傾げる。

「どうも、そのようよ」

「ほう〜 理解できぬのお〜」

 薩摩武士の覚右衛門には、自分のプライドを傷つけてまで、人様に笑ってもらおうなんて、思いも寄らぬことである。

「皆で一緒になって、愉快に楽しく笑って、飲みましょうと、そう云うことらしいわ」

「愉快にのお〜」

「広い海の上でしょ、何もない、船の中じゃあ〜 啀み合っても、仕方ないですものね」

「そうよのお〜 楽しいに超した事はないわな。我らも、考えを新たにせねば、ならぬようじゃのお〜 忠永」

「はっ、御尤も」

薩摩国では、九州の統一を長年にわたって目論んでいるにも係わらず、今だに実現されてはいない。薩州、大隅州、日向州の殆どを手中にしているとは云っても、戦火がくすぶっている。藩士達の結束を計り、更に奄美大島から琉球王国までも手に入れんと、画策している。坊津を我が物にしてから、未だ間もないだけに、各国から密偵達が放たれ、いつ坊津が墜ちるか、安心できない状況であった。それらは、藩士達にとっては難問だけに、笑えるどころか、殺気じみた雰囲気が流れていた。薩摩国の九州統一は遠く、夢また夢のように思われた。

「女将。船長は、何処にいるんじゃな?」覚右衛門は、辺りを見回す。

「お呼びしましょうか?」

「一緒に飲みたいもんじゃなあ〜」

「お待ちになって」と言って、お鶴は、船長の席まで呼びに行く。お鶴に案内されて、船長と航海士が、覚右衛門達の座席に上がって来た。

「失礼致します」と、船長は深く頭を下げた。

「おお〜 船長。ささっ、此れへ参れ」

「ははっ、では」と言って、船長は、覚右衛門の隣に座った。航海士も、覚右衛門と忠永に深々とお辞儀をすると、船長の隣に黙って座る。

「金現丸船長の、折田作兵衛で御座います」と言って、深く頭を下げ自分を紹介すると、「こちらは、航海士の源四郎で御座います」の紹介に、航海士も深々と頭を下げた。髭面の肩幅があり、がっちりとした船長の体格に、覚右衛門達は、溜め息をつく。ハンサムな航海士も又、がっちりとして日焼けした肌が、光って見えた。

「我らは」と覚右衛門が言った途端、「存じおります」と、覚右衛門の紹介を、右手を前に制した。「左様か、さっ、一献」と言って、覚右衛門は、徳利を手に、船長の前に差し出した。

 船長の持つ杯に、酒が注がれる。一気に飲み干し、杯を覚右衛門に返して、徳利を手にした船長は、酒を酌み交わす。

 航海士の源四郎は、忠永の酒を受けて、一気に飲み干す。忠永もまた、源四郎の注ぐ酒を、手に持つ杯に受けた。

「船長」「はっ」「大海原を渡り、異国を見聞できる」

「はっ、しかし海は、時として怒り、荒れ狂います・・・」 

「うむっ、容易いことではないと、我らも感心致しておる。そこまでして行く、魅力とは一体何ぞや・・・命を賭けて、守り戦う武士道にも似ていると、そなた達の出船入船を、遠くから見る度に思うぞ」

「ははっ!そこまで、仰って下さって、私を含め乗組員達も、さぞ、喜ぶことで御座いましょう」と、船長は、店の中を見回した。太鼓の音が響き、踊る姿は滑稽で、賑やかに酒を飲み交わす乗組員達の姿は、覚右衛門の言う武士道とは、到底思われない。飲ん兵衛達の姿が、そこにはあった。

<しかし、奴らは、人の心を、裏切ることも知らず、ただ純粋で、気の良い奴らじゃ> 船長には、薄汚くも見える乗組員達が、やけに輝いて見えた。

「次の航海は、いつ何処へ、行かれるのですかな?」と、忠永は、船長を見て言った。

「年が明けましたら、竺土へ行くことになるでしょう。積み荷を終えたら、明国へと向かいます。竺土からの船とするので御座います」

「竺土からの船とな?・・・成程、その手も御座るか?」と、忠永。

覚右衛門は、「それじゃあ、国交が無いとは云え、手も足も出まいのおっ」と船長を見て、にこりと笑う。

「我らを取り締まるのは、無理で御座いましょう。それよりも、民の才覚に任せた方が、宜しいかと・・・」

「官では、覚束ないと?」と、覚右衛門は、不愉快な顔を見せた。

「民、あっての官です。民なくして、国家は存在しませぬ。皆揃って、他国へ移住でもしたらどうでしょうか?国家は、潰れてしまいます。民に因る解決が、最も望ましいと存じます」と、船長は覚右衛門を目の前に、はっきりとした口調で言い切った。

確かに、その通りだと、覚右衛門は、深い溜め息をついた。同じ考えであろうか?忠永は、腕を組み「うむっ〜・・」と唸った。

「我らは、薩摩で、生まれたにすぎません。地位や名誉が、ある訳でも御座いませんし。何処でも構わないのです。ただ、楽しく生きてさえ行ければ・・・それが、私ら平民なのですよ」

「それでは、官は必要ないと?」と、忠永。「必要ないとは、言っておりませぬ。必要でしょう。必要でしょうが・・・何が、一番大切なのか?ではないでしょうか?」船長は、顎髭を右手で擦った。

「何が、大切か? で御座るか?」忠永は、船長の言葉を繰り返し、心に刻んでみるものの、平民の気持ちなど考えたことも無く、到底理解し難いことであった。が、覚右衛門は的を射た言葉だと思った。平民と武士の狭間に置かれている覚右衛門は、複雑な心境であった。

太鼓のリズムが、覚右衛門達の心を打ち鳴らすかのように、大きく響いている。騒めきの中に、笑いが聞こえている。自分の腑甲斐なさを、嘲笑っているかのように、覚右衛門には、痛く聞こえていた。

「さて、女将」「はい」

「そろそろ三味線の音が、聞きたいのお〜」覚右衛門は、お鶴の注いでくれた酒を、一気に飲み干した。

「はあ〜」との、お鶴に、「何じゃい、気のない返事を致すでない」

「あんなに、楽しく踊っているのにで御座いますか?」と、船員達の楽しみを横取りしたくはないと、浮かぬ顔をする。

「三味の音に合わせて、踊れば良かろう」

「はあ〜 それでは」と言って覚右衛門達の席を立つと、太鼓を叩いている直吉の所に、乗る気のしないまま歩み寄って行った。

お鶴の何時もと違う踊りの輪に近付く態度に、太鼓の音が止み、乗組員達は、踊るのを止めた。騒めきの中に、お鶴は、直吉に耳打ちをした。直吉は、軽く頷いている。立てかけてあった三味線を手にしたお鶴は、近くの椅子に腰掛けて、賑やかに弾きだした。三味と太鼓の音に合わせて、直吉から指名された善兵衛と助蔵が踊る。宴席は、お鶴の三味の音と歌声に華やかさを増し、賑やかに夜は、過ぎていった。

一夜明けた海に、飛ぶ鳥さえも影を写し、囀りは、港の中に響いている。朝日を受けて煌めく波の上に、金現丸は、勇姿を浮かべている。風を待つ他の貿易船もまた、朝日の中に異国への思いを、漂わせていた。

唐船奉行の本田清重郎は、向井覚右衛門、大野忠永達四人を伴い、一乗院の正門を潜った。真言宗である一乗院は、百済国光明寺の日羅が建立したと云われ、鳥越山龍巌寺と称していた。1357年(延文2年)、西海金剛峯龍巌寺と改名し、更に1418年(応永25年)に、西海金剛峯龍巌寺一乗院と名を改めていた。

第七代住職の頼全の時1522年(大永2年)に、薩摩国太守島津勝久の命に因って、山門の建立と金剛力士像を始めとした一乗院の再建を果していた。

薩摩にとって藩士達の結束を計る為には、宗教ことに真言宗と山伏を利用した方が都合が良かった。その為の、一乗院の果たす役割は大きく、武士でさえ、山門の前は馬から降りて、礼を尽くさなければならない程に格付けをしていた。住民は再建を期に、よほどのことが無い限り、一乗院への立ち入りは許されなかった。薩摩は、一乗院を再建させ、その利用価値を高め、九州統一を着々と準備していた。

庭は前にも増して、広々としている。再建前の賑わいもなく、静まり返った庭を抜けて、石段を登る。本田清重郎は、第二の門を潜って、本堂へと向かった。僧侶に案内されて、部屋に入った清重郎達は、住職頼忠を待った。頼忠は、待たせることもなく、直ぐに現われた。

「これはこれは、本田殿、よく御出で下された」と、頼忠は、上座に座ると軽く頭を下げた。清重郎始め皆の者も、頭を下げる。

「御住職には、ご機嫌麗しゅう存じまする」

「うっ」と言って、頼忠は頷く。

「お訪ね致したのは、他でも御座いませぬ。日向の伊東殿が、何やら画策致しているとの報告を受けておりまする。豪族達と結束致し、我が薩摩に圧力でも加えはしまいかと、案じておる次第で御座いまする」と、真剣な眼差しを見せた。次第に島津家の力は衰え、無力化の方向を辿っていた。そこで、伊作島津家の貴久を、養子に迎えようとの動きがあった。

「国一揆でも、起こると?」と、頼忠。

「如何にも、その通りかと」

「それは、まず御座いますまい。御安心なされよ」と言って、頼忠は笑いさえ浮かべる。

「お分かりになられるのですか? 御住職」

「伊東殿と云えば、日向州の北部に位置し、豊後と肥後が、睨みを利かせております。先ずは、自分の守りが先決でしょう」

「今のところ、その心配はないと?」

「左様、案ずることなど・・・それより、坊津を御案じなされよ。この坊津は、薩摩の外城としての要ですぞ。他の国に、墜とされら薩摩の存在さえも怪しくなりますぞ」

「はっ、十分承知致しておりまする」

そうなれば、琉球王国への渡琉船を、勘合する権限も失うことになる。琉球貿易や対明貿易を、統制し独占しようと画策する薩摩にとっては、一大事である。薩摩の経済は、坊津の唐物税に因って支えられている。坊津を、他国へ渡すことなど、決して許される事ではなかった。その重要性を十分承知しているだけに、清重郎は、深い溜め息をついた。清重郎の後に控える伴の覚右衛門達も、溜め息をつく。清重郎は、腕組みをして考え込んだ。

「如何なされたのかな? 本田殿」

「はっ、欲しいでしょうなあ〜 喉から手が出る位に、この坊津が・・・しかし、我らが守っている以上、誰にも渡しませぬぞ」

 清重郎の言葉に、覚右衛門は頷いた。

「うむっ、その意気で御座いますぞ」と言って、住職頼忠は、肩を震わせて笑った。

僧侶の全慶が、部屋に入って来る。頼忠の近く横に正座をした全慶は、清重郎達に深く頭を下げて挨拶をすると、住職頼忠を横目で見た。意味ありげな軽い会釈をして、何やら合図をする。

「本田殿、お茶でも如何かな?」と、頼忠は清重郎に微笑んだ。お茶の準備が出来ているの合図であった。

「宜しいですなあ〜」

 唐船奉行本田清重郎達は住職頼忠と、準備の整っているお茶室へと案内されるまま、全慶に付いて行った。

 部屋は、冷え冷えとして寒さを感じる。この一乗院で、お茶の接待を受けるのは、暫くぶりである。正座をする覚右衛門の腕が、少し震えていた。

頼忠の出してくれたお茶を、皆は一人ずつ味わった。住職頼忠の話には、重みがあると皆はお茶を啜りながら思った。

住職頼忠との会談は、一方的な、御住職の助言で終わっていた。住職頼忠に深々と頭を下げて、挨拶を交わした清重郎達は、一乗院を後にした。

張り詰めていた、緊張の糸が解けたように思えた。爽やかだった。

浮かぶ貿易船を、目の前に見ながら、長くなだらかな坂を下り、坊の浦へと向かう。門の外へ一歩出ると、出船入船が直ぐに判るように、道は港の中程に向けて、真っすぐに延びている。何処の道も、そうであった。清重郎を先頭に、港へと延びる道を左に折れて、いつものように歩く。すれ違う人が、清重郎達を振り向く。知っているのであろうか?その歩く姿に、御婦人が会釈をした。清重郎達は、構わず歩いた。

 人通りも疎らな、通りに差し掛った時であった。

人の気配を感じた清重郎は、「敵」と、小さな声で言った。向井覚右衛門、大野忠永達はとっさに左手を太刀に添えた。左親指を鍔に当てて少し引き抜き、ゆっくり歩きながら辺りの様子を伺う。物影から浪人達の姿が、目の前に現われた。よれよれの着物を着た三人である。ひとりは、竹の笹を口に加えて、右手を懐に入れている。後の二人は、左手を太刀に添えていた。五対三。どう見ても我らに勝てるとは思えない。腕に余程の自信があると、覚右衛門は思った。そして、覚右衛門は叫んだ。

「我らを知ってのことか!」

「・・・やれっ」と、笹の葉の男が叫んだ。

「お奉行、我らだけで充分です」と言って、覚右衛門は、本田清重郎の前に出た。他の三人も、清重郎を庇うように、前に進み出た。覚右衛門は、ゆっくりと太刀を抜くと、正眼の構えにして間合いを取った。忠永達も、太刀を抜き相手の喉元に剣先を向けて正眼の構えとし、打ち込みを待つ。三人の相手は、一歩引いたが、同じく正眼の構えとした。

忠永は、正眼の構えから、右足を一歩引くと、わざと隙を見せるように脇構えとして、相手の打ち込みを誘う。相手は隙をみて、「やっ!」と、打ち込んで来た。忠永は、正面頭上で相討ちとし、鎬を削るようにして、相手の太刀を、押し下げた。相手が、太刀を持ち上げようとした所を、相手の太刀を躱し、透かさず右足、左足、右足と前に進み、右胴を斬る。「うわっ!」と言って、相手は前に、ばったりと倒れた。相手の血が、飛び散る。

仲間が斬られて、他の二人は、動揺を見せた。正眼の構えから、ひとりが清重郎の伴の者に斬り掛かる。体を躱されて、よろめいた所を、他の伴の者から、頭上を斬られて、倒れ込む。血飛沫が、空高く舞い上がった。

覚右衛門は、笹の葉の浪人に剣先を向けると、正眼の構えから八相の構えとした。相手は、正眼の構えを崩さずに、覚右衛門に剣先を向けて、対する構えとした。じりっ、じりっと前に進みながら、覚右衛門の間合いを崩す。覚右衛門は、右横に移動する。相手は、可成の使い手と見えた。

一瞬の隙を見て、相手は、頭上から打ち込んで来た。覚右衛門は、太刀で横にしのいで、払った。太刀のぶつかる音が、不気味に響いている。太刀を払われた相手は、体を整えて右上段の構えとする。覚右衛門は、下段の構えとして、相手の打ち込みを誘った。思惑通りに、相手が、頭上から打ち込んで来た。途端に、相手の喉元に突きの一撃が、襲いかかった。相手は、「うぐっ」と言って、よろめく。覚右衛門は、直ぐに喉に突き刺さる太刀を、抜いた。相手は、血飛沫と共に、ばったりと倒れ込んだ。

浪人達三人は、全て斬られ、倒れている。

「大丈夫か?」と、清重郎は、皆を気遣って言った。皆は、太刀を鞘に収めている。

 小さく頷いた覚右衛門は、「一体、何者で御座いましょうか? 見慣れぬ顔で御座いまするが」と、清重郎を見た。

「密偵であろう。我らと知って、狙うとはのお〜 何か、企んでのことであろう」

「何かとは? それに、何処の密偵で、御座いましょうか?」

「うむ〜 とにかく、気をつけるように、皆にも報せておいてくれ」と、清重郎。

「御意」

 石畳の庭先は広く、寒椿が鮮やかに満開である。群れる目白が、椿の枝を占拠して蜜を吸っている。甲高い囀りが、屋敷の中まで響いていた。

中村文左衛門は、金現丸船長の折田作兵衛と航海士の源四郎、伸滋を前に、次ぎなる航海の打ち合せをしていた。

海図を扇子で指して、航路を決定する。

「途中、呂宋(フイリッピン)に立ち寄る」

「はっ、竺土(インド)迄となりますと、長い航海故、その方が、宜しいかと・・・」

 船長の作兵衛は、文左衛門に賛同する。

「船長、帰りに、モルッカに立ち寄りたいのだが、食糧の補給は、出来るのか?」

「食糧の補給は、大丈夫ですが、モルッカに立ち寄るとなりますと、安全なのは、呂宋から南下するのが宜しいでしょう。ただ、明国までの帰路に立ち寄るとなりますと、可成の無駄な距離がでます故、如何なものかと・・・」船長は、呂宋からモルッカの航路をゆっくり指して、明国へと扇子を移動させた。

「行きに立ち寄った方が、良いと?」

「その方が、宜しいかと」

「うむ〜 如何なものかのお〜」航路の決定が、航海の安全と日数を左右するだけに、文左衛門は、考え込んだ。

「帰り、余裕があったら立ち寄るとして・・・・・航海中考えることに致そう」

「はっ、承知しました」との船長の言葉に、航海士達も頭を軽く上下に振って、頷く。

「食糧の積込みは、年明けにしよう。その時に、出帆準備をさせておいてくれ。それまでは、充分な休養を与えておいてくれよ」

「交替で当直を致し、休ませております」

「あい分かった」と言って、文左衛門は、海図を丸めると、筒の中に仕舞った。

「打ち合せも済んだ事だし、食事に致そう。豊! お豊!」と言って、文左衛門は、両手を開き平手で二回叩いた。静かな部屋に、「ぱんぱん」と、合図の音が響く。短い沈黙の後、食事が運ばれて来た。

妻のお豊は、女中頭に目で合図をして、船長達の前に食事を置かせる。

女中達は、徳利を手にすると、船長達にお酌をしてあげる。申し訳なさそうに、杯を持つ手を伸ばす船長である。

「さあ、頂こう」と、妻のお豊が注いでくれた杯を前に差し出して、乾杯の音頭を取った文左衛門は、一気に飲み干した。

船長、航海士達も、一気に飲み干す。

 女中がひとり、お櫃の前に待機している。お豊は、文左衛門の隣に正座をして、皆の食事を見守った。物静かな食事である。

昼食には、酒あり酒の肴ありと、恙なく進んでいった。

「今夜は、乗組員達と山桜で会う事になっておったな?」と、食事を終えた文左衛門は、船長を見た。

船長は、「はっ」と言って、杯を置く。航海士達は、それに軽く頷いた。

「その時に、乗組員達には、航海日程や航路などを伝えることにしましょう」と、船長。

「うっん、宜しく頼んだぞ」

暮れゆく港に、灯りが揺れて、興禅寺の鐘の音は、坊の浦に響き渡り夕焼けを包み込む。並ぶ料亭の提燈にも、灯りが燈り始めていた。帰りを急ぐ子供達の声は賑やかで、三味線の音に引かれて店に入る大人達の姿が、そこにはあった。

家を出た船頭の文左衛門は、船長と航海士二人を伴って、料亭『山桜』の暖簾を潜ると、店に入った。文左衛門達は、女給にいつもの大広間に案内されて行った。歩く程に騒めきが、少しずつ大きく聞こえて来る。大広間に近づいて行く。

 乗組員達は、既に集まり、文左衛門達の来るのを、今かと待っていた。

大広間に入って来た文左衛門達に気付き、騒めきが止む。文左衛門達は、空いている上座の席に正座をすると、横に座る船長に目を少し吊り上げて合図をした。その合図に船長は立ち上がると、「よく来てくれたと」挨拶をすると、今夜の集まりの説明をしだした。皆は、黙って聞いている。

「年が明けたら、食糧等の積み荷を行ない、航海準備に入る。今回は、呂宋から竺土迄の長い航海になる故、皆、十分な休養を取るように。明国への帰路の途中に、モルッカに立ち寄るやも知れぬので、後で連絡する。それでは、心置きなく、今年の垢を洗い流すように。そして、良き年が来るように飲んでくれ。女将」女将に、手料理と酒を運んで来るようにと手を上げて、合図をした。料理が運ばれ、皆の前に置かれていく。大広間に騒めきが戻っていた。

「皆、酒は注いだかな? 良いかな? それでは」と言って、船長は、酒の注がれた杯を前に乾杯の音頭を取る。皆は、一気に飲み干した。

 女給達は、お酌をして回っている。乗組員達は、お酌を受け、手料理にと箸をつける。

女将のお志麻は、「よき年が来れば良いですね」と言って、文左衛門にお酌をした。色白の項が、文左衛門達には、やけに光って見える。色気あるお志麻である。<可愛い奴じゃのお、お志麻も>

「お奉行様や向井様達ねえ〜 密偵達と斬り合ったらしいわよ」と、お志麻。

「密偵と? 何時のことかな?」溢れる程に注いでくれた酒を、一気に飲み干し、首を傾げる文左衛門である。

「午時(正午頃)頃らいわよ。凄い騒ぎだったらしいわよ。大事なくて良かったわ」

「示現流の達人じゃで、まず、斬られることはないであろうが・・・・・密偵がのお〜 何故、であろうか? ふうむ〜」

 徳利を手にして、お志麻に酒を注ぐ。

「命を、狙われなさったと云う噂よ」

 お志麻は、注がれた酒をゆっくりと飲み干した。赤らんだ顔が、益々色気を誘う。

「うむ〜 狙って来たか・・・この坊津を手に入れたいというのは、解らんでもないがのお〜・・・近衛の荘円であった坊津じゃ、取り戻そうとのことか? 他国の誰かが・・・或いは・・・」と、謎をかけた。

「或いは、何です?」と、徳利を手にする。「いや、何でもない」と、お志麻の質問を制して、杯持つ手を伸ばす。

「嫌ですよ、はっきり仰いませよ」お志麻は、横目で文左衛門を見て、酒を零れるぐらいに注いだ。

「おっととと」と言って、杯に口を近付けた文左衛門は、酒を味わうように飲んだ。

 皆は、食事も進み、酔いが回って来たようである。踊りの頃合である。文左衛門は、お志麻に、「女将、三味線を頼むぞ」

「分かったわ」と、女給に手を振った。

 女給はその合図に頷き、お志麻に応える。舞台の上には、三味線と太鼓を持った芸者達が現われ、調弦を始める。

賑やかな三味線と太鼓の音が響く。その音に合わせて踊る芸者の姿に、騒めきが止んだ。洗練された玄人の踊りである。皆の酒を飲む手を、止めさせていた。

「直さん、さっ、おひとつ、どうぞ」と、芸者の踊りに見惚れている直吉に、女給が酒を薦める。直吉は杯を手にして、差し出した。

「芸者さん達にゃあ〜 眼がないのね」

「そんなことはないぞ、なっ、善兵衛」

「えっ、何じゃい? 直吉よ」

「小間物屋のお佳ちゃんは、どうしてるんかいのお〜」と、酒を飲み干して、振り向いた善兵衛に微笑む。

「お佳ちゃんか?・・・ワラジ、お佳ちゃんのこと、知ってるかい?」

「お佳ちゃん? おいらにゃあ〜 縁がねえなあ〜」と、助蔵は、自分で酒を注ぐ。

「六助、おめえは?」と、助蔵。

「仕立物を、習っているらしいぞ」

「あら、お佳ちゃんに気があるの?そう云えば、船大工の利衛門さん達も・・・」と、言葉を濁して、善兵衛にお酌をする女給である。予想していたとは云え、直吉は驚いた顔を見せた。助蔵は、お構いなく手料理に箸を付けている。

「船大工の奴らにゃあ〜 負けられねえ。なあ〜 直吉よ」と、善兵衛。

「あらあら、そんなに火花を散らしちゃあ〜まとまる話も、まとまらなくなるわよ」

「そうだぞ、それに、竺土のあの娘は、どうする積もりじゃ? 善兵衛、お前に惚れているようじゃったが・・・」

 直吉は、善兵衛の顔が赤らむのを見て、微笑んだ。助蔵も、小さく笑っている。

 芸者の踊りが、終わったようである。

「揶揄うな! さっ踊るぞ」と言って、善兵衛は、立ち上がった。

 三人は、舞台に上がると、芸者の弾く三味線と太鼓の音に合わせて、踊りだした。

いつものこととは云え、愉快な踊りであった。乗組員達も、代わる代わるに、舞台に上がり、踊る。勢い良く踊る姿は、餌に食らいつく、群れる魚のようであった。

 あとの芸者達は、乗組員達にお酌をして回る。

文左衛門は、若い者達の楽しむ姿に、満足であった。

宴席は、夜の更けるのも忘れたかのように、華やかに進んでいった。

 

       二

年は明け、1528年(享祿元年)を迎えた。町並みを、粉雪が包み込む。積もりゆく海岸通りに、足跡を付けながら歩く向井覚右衛門の姿があった。傘をさす覚右衛門の足取りは重い。唐船奉行の本田清重郎から、密偵狩りの命を受けていた。薩摩には、一兵たりとも入れるなとのことである。坊津には、播磨、摂津、和泉、河内、大和、山城など他国からの訪問客も多い。取締を強化すれば、ある程度の混乱を、覚悟しなければならない。交流を止めさせることは、薩摩の経済を、脅かす事になりかねない。気が重かった。

覚右衛門は、廻船問屋達に協力を得る為に、降りしきる雪の中を中村文左衛門の家に向かって歩いた。白い足跡だけが、黙って付いて来る。

文左衛門の家の門を潜った覚右衛門は、石畳の庭をゆっくりと歩く。玄関の前に来た覚右衛門は、傘を畳み、上下に振って傘に積もる雪を、払い落とした。傘を近くに置くと、玄関を開けて、声をあげた。

「頼もう! 文左衛門殿は、御在宅かな?」 暫らくして覚右衛門の前に、女中が現われた。

「これはこれは、向井様。旦那様は、御出でで御座いますよ。お上がり下さいませ」

 正座をする女中は、深く頭を下げた。

「左様か、それでは失礼致す」と言って覚右衛門は、いつもの部屋に、女中に案内されるまま上がって行った。

「失礼します」と、女中は、障子の前に正座をして開ける。覚右衛門は、つかつかと部屋の中に入った。女中は、ゆっくりと障子を閉める。

「良く御出で下さいました。ささっ、そちらへ」と言って、文左衛門は、上座を指した。「実は、文左衛門」「はい、何で御座いますか? そんなに、難しいお顔をなさって」座布団に、畏まって正座をした覚右衛門を見た。何時もと様子が違う、覚右衛門の様子に、文左衛門は、何かを感じ取っていた。

「いや、何、密偵の取締を、強化せよとのお達しでのお〜 そなた達に、迷惑が掛かるやも知れぬ。各番所など、通行し難うなる」覚右衛門は、腕を組んで言った。

「お言葉では御座いますが、向井様。この坊津は、明国に湾口を向け入り組んだ海岸線を持っております。坊津に入ることは、容易く存じます。御存じのように、取り締まるのは不可能に近いでしょう。それで、密偵達が、この地で生活するのが、し難うなれば、仰るような検問などの必要は、直ぐにでもなくなります。自ら、密偵達はこの地を去ることで御座いましょう」

「生活するのを、し難うのお〜」「はい」

「しかしのお〜文左衛門。密偵達は、既にこの地に根を張って生活しておる。それを今更、誰とも知れぬ密偵達の生活権など、そう簡単には奪えまいよ」

「左様ですね。入国、出国を、急に禁止する訳にもいきますまい。反乱を起こすやも・・・向井様」

「そうよのお〜 番所の検問などは、形だけに致すとするか・・・」と、腕組みを解く。

「その方が、利口でしょう。薩摩に入る理由付けなど、如何様にも出来ます故」

「うっん、尤もじゃな。しかし、どのような手立てが、あると言うのじゃ? 文左衛門」覚右衛門は、首を傾げて考え込んだ。

「はい、私でしたら、新たに通行手形を発行致し、発行した名前は全て記帳して、他に譲れないように致します。その手形なき者は、食糧など何も買えないように致しまする。出入りする者の、名前は全て記載致し、確認把握し、必要なら見張りを付けまする」

「文左衛門、そなたの考えも、よ〜う解るがのお〜 新たに通行手形を発行とはの。実行するのは、ちと難しいぞ」首を小さく振った覚右衛門は、眉毛を眉間に寄せて、渋い顔をする。

「左様で御座いますか?」

「うむん〜 通行手形は、偽造されるであろうし、食糧など品物は、金さえ払えば、どこででも手に入る。容易いことじゃよ。ただ、そなたの言うように、出入りする者達の名前は全て記載して、把握するように致そう。必ずや、繋ぎを取るであろうからのお〜」

「偽名の対応は、お有りで御座いますか?」文左衛門は、覚右衛門を覗くように見る。

「偽名のお〜」と、覚右衛門は、腕組みをした。密偵であれば、偽名を使うのは当然のことである。名前を把握しただけで、密偵を捜し出すのは、難しいことであった。そのことは、覚右衛門にも十分に、解っている。

「密偵の名前は、無いに等しいもので御座います。ただ、薩摩の名前や言葉には、特徴が御座います故、ある程度の違いを確認できますれば、密偵の予想が、つくかと」

「薩摩で使う、名前と言葉にのお〜」

「確実では、御座いません故、何かと、問題も起こるかと・・・仮に、密偵を捜し出したとして、どうなされるので御座いますか?」

「斬って捨てるしか、あるまいよ」

「ほう〜 斬って・・・どうせなら、仲間に引き込まれたら、如何で御座いますか?」

「仲間にのお〜」と、腕組みを解く。「何故、仲間なんぞに」

「はい、その方が、使い道が多う御座いますよ。他国の情報にも、精通している筈で御座います。斬るのは、誰にでも出来ること」言い終わって、文左衛門は、促すように軽く頷く。

「失礼します」と言って、女中が障子を開けて、部屋に入って来た。二人の前に、お茶を置く女中である。

「信義に厚き者であれば、家来にしても良かろうがのお〜」

「それは、間違い御座いますまい。義無くして、密偵は勤まりませぬと存じますが」

「そうよのお〜・・・・・ 味方にのお〜」覚右衛門は、出されたお茶を、ゆっくりと啜った。文左衛門も、一口お茶を飲む。

「薩摩には、そのようなお方達の力が、いつかは必要になる日が来るかと存じますが」文左衛門は、静かに障子を閉めて出て行く女中に目をやった。視線を、覚右衛門に戻すと、「明日も判らぬ戦乱の世には、どれだけの情報を、我が物にするかでは、御座いますまいか?向井様」

「文左衛門、そなたの言う通りであろう。明国、ひいては、竺土まで行っているそなたの考えには、我を説得する何かがある。しかしのお〜 斬れとの命が出ておる。拙者だけの力では、味方に出来るかどうか・・・」

「うむ〜」と言って、覚右衛門は肩を落とす。

「向井様、密偵でなければ?」

「密偵でなければ、斬ることはない」

 文左衛門は、密偵ではないことにせよと言っている。覚右衛門は、可笑しくなった。

「そうで御座いましょう?向井様の家来とすれば、宜しいのでは?」

「文左衛門、そなた、相変わらず悪知恵が、働くのお〜」と言って、覚右衛門は、肩を上下に震わせて笑った。文左衛門も、釣られて笑う。話は、決まったようであった。

振り続いていた雪も何時の間にか止んで、目の前には銀世界が広がっている。薩摩国には珍しい、数年振りの雪である。陽射しに照らされて、きらきらと輝く。眩しいくらいであった。道端に積もっていた雪は、既に溶けている。申時(午後三時頃)であった。

 直吉、善兵衛、助蔵、六助達は、小料理屋『木蓮』の暖簾を潜った。

「いらっしゃあ〜い」と、女給の明るい声がお店に響く。看板娘のお孝である。

お孝は、都から流れて来たと噂され、顔立ちの整った色白で色気ある女である。

 直吉達は、何時もの席に腰掛けた。

「あらっ、珍しいのねえ〜 皆さん揃ってどうなさったの?」と言って、お孝は、机の上にお茶を置く。直吉達は、恥ずかしそうに、俯いて、置かれたお茶に手を伸ばす。

お孝は、彼らの仕草が、不自然で可笑しかった。・・・が、笑えぬ雰囲気であった。

 暖簾を出したばかりで、直吉達の他には、お店にお客はなく、静かである。

 お茶を置き終えたお孝は、皆の注文を聞いて、さっさと奥へと消えて行った。皆は、お孝の歩いた残像を、覗くように目で追う。

「相変わらず、綺麗じゃのお〜」と言って、善兵衛は、お茶を啜った。

「旦那でも、いるんかいのお?」との助蔵の言葉に、「ワラジ、旦那がいたら、こんな所で働いている訳はないぞ。嫁にしたらどうじゃい? 応援するぜ」と、直吉。

「いやあ〜 おいらにゃあ〜 似合わねえ〜よ。あんな綺麗な人がさあ〜」

「ワラジ、分かるかよ。やってみにゃあ〜 分かるかよ。案外、ワラジに惚の字かもよ、お孝ちゃんは・・・」と言って、善兵衛は、小さく笑った。

「傑作じゃなあ〜 ワラジに惚の字かよ。このあっしを差し置いてさあ〜」

 六助は、指で自分を指した後、皆を見回した。その言葉を聞いた皆は、肩を揺するようにして、大笑いをする。

「何を、そんなに笑っているの?」

 愉快に、大笑いをしている所へと、手料理を運んで来たお孝は、<何がそんなに、面白いの?>と、不思議そうな顔を見せる。

「いやいや、ワラジの嫁さんは、きっとお孝ちゃんのような、綺麗な人じゃろうと」

「あら、直さん、助蔵さんのお嫁さんが、私だと、面白いの? 私、ちっとも綺麗じゃなくてよ。綺麗じゃないから、可笑しいのねきっと。揶揄っているのね? 嫌あ〜ね」

 他の女給も、手料理をそれぞれの前に、ゆっくりと置いていく。

「いや、お孝ちゃん。揶揄っちゃあ〜 いないぜ。それとも、何かい、ワラジの嫁さんじゃあ〜 嫌なのかい?」と、直吉。

「嫌じゃないわよ。考えとくわ」

手料理を置き終えたお孝は、両手でお盆を胸に抱くようにして、恥じらうようにした。

「考えとくわ、だってさ。ワラジ」と六助。「おいらにゃあ〜」

「おいらにゃあ〜 何だい? ワラジ」

直吉は、どんどん押して行くようにと、力を込めて言った。

助蔵は、俯き、「おいらにゃあ〜 勿体なくてさ」と、言葉に力が無い。

「勿体なく、無くってよ。助蔵さん」

 当のお孝は、俯く助蔵を元気付ける。

手料理を置き終えて、厨房の前に立っていた女給が、「いらっしゃい!」と、大きな声でお客を迎える。皆は、お客に振り向く。

 お孝は手料理を取りに、厨房へと足早に戻って行った。

暫らくして、お孝は、先ほど入って来たお客の席に手料理を運ぶ。お酌をしてあげる姿に、直吉は、見惚れていた。ゆっくりと酒を飲み干すその浪人は、以前何処かで遇ったような気がする。顔を眺めながら考え込んでいた。

浪人が、懐から何やら白い文を、お孝に手渡した。お孝は、気付かれないようにと、とっさに胸元に入れた。その様子を、直吉は見逃さなかった。お孝は、知らぬ振りをして、厨房へと歩いて行った。

「駄目じゃ、ワラジ」

「何が駄目なんじゃい。直吉よ」と、善兵衛は、料理に箸を付けている手を、止めた。

「あの浪人のお〜 お孝ちゃんに、恋文を渡したぜ」「何っ」と、皆は、驚いた声を出して浪人を一斉に見た。

「おいおい、あまり見るでない」と、直吉。皆は、視線を逸らした。

「どうも、お孝ちゃんは、あの浪人に惚れているようじゃぞ。受け取った文をさっと、仕舞いやがった」

「そうか、矢張りのお〜」と、善兵衛は、腕を組んだ。気まずい沈黙が走る。

お孝は、浪人から渡された文を、誰にも気付かれないように、こっそり開いて読んでいた。文字を目で追うお孝は、真剣である。読み終えたお孝は、また胸元へと仕舞った。

「お孝ちゃん! お茶!」

 直吉は、大きな声で、お孝を呼んだ。

「はあ〜い」と、直吉達の所へと、お茶を持って来て、ひとりずつ注してくれる。

 お孝の様子に、皆には、どうも浪人に惚れているとは思えない。首を傾げる。何かありそうな、予感がする直吉達であった。

お孝の、浪人に対するさり気なくも不可解な態度から、後を付けて何者かを確認しようと云う事になった。店を出た直吉達は、物陰に隠れて浪人の出て来るのを待った。浪人の正体は、あの姿からは、到底予想もつかなかった。

 瓦に積もった雪が、解けて雨のように落ちて来る。両腕で自分を抱かかえ、震えながら、じっと寒さを堪えていた。

「おい、助蔵、どうしたんじゃい、こんな所で・・・えっ」と、後から肩を叩かれた助蔵は、思わず、「おおっ!」と、驚いた声を出した。

 皆も、一斉に後を振り向く。役人の大野忠永である。にっこりと微笑んだ顔に、白い歯がきらりと光る。皆は頭を軽く下げて、会釈をした。

 <悪い奴に、捕まったもんだ>

「いえ、おいら達は、別に何も」と、ぺこぺこと頭を下げる助蔵に、「皆揃って、何を企んどる?」と、忠永は、皆の前に出た。

「あっしらは、人を待っているんでして」

 直吉は、両手を擦りながら、軽く頭を下げた。

「物陰に隠れて、えっ、誰を待っておるのか? 可笑しな話しよのお〜 こそこそと。直吉、隠すんじゃないぞ、拙者には、分かっておる。ちゃんと、説明してもらおうか?」揺さぶりをかける忠永である。

 こうなったら、全てを話すしかあるまい。皆は、渋い顔を見せた。

「へい、実は・・・」と言って、直吉は、話しだした。忠永は、黙って聞いている。

「ほう〜 成程、そう云う訳であったのか・・・よっしゃ、拙者も付き合おうぞ」

「ええっ、旦那、止しておくんなせえ〜 あっしらは、あの浪人が、誰なのか知りたいだけでして・・・」と、直吉。

「拙者も、誰なのか知りたいのじゃ。気に致すな。お孝に近づく奴の顔も見てみたい」

「分かりやした、ご勝手に」と不貞腐れた直吉に、「仕方がないさ、一緒に付けようぜ」と、善兵衛は、店の方に目を向ける。店に入るお客の姿が、見える。通りは、賑やかさを増していた。

 暫らくして、浪人が店から出て来た。

皆は息を堪えて、浪人の姿を目で追う。

浪人は、賑やかな通りを抜けて、裏通りへと曲がった。皆は、ゆっくりと後を付ける。雪解けの後の道は、茶色い肌を見せて、歩く度に水を足元に跳ねる。不快感があったが、皆は構わずに、ゆっくりと物陰に隠れながら浪人の後を追った。

何時の間にか、静かな商家の通りへと、来ていた。辺りには、白い壁塗りの蔵屋敷が、並んでいる。奥まったその通りの外れに、蔵屋敷には不釣合いな古びた家が見えている。浪人は、左右を確認すると、その家の中へと入って行った。

「入って行ったなあ〜 あの家は、空き家の筈であったが、あ奴が借りていたのか・・・この通りじゃ、見つからないのお〜 商人達だけが住んでいると、思い込む所じゃ」

 忠永は、腕組みをすると、皆に言った。

「見つからないって、何が見つからないんですかい? 旦那」と、直吉は、首を傾げる。

「いや、気に致すでない」

「気になりますがな、このままじゃあ〜 出帆できませんぜ。心残りでやんすよ、旦那。なあ、皆」と、善兵衛も、腕組みをした。

 皆は、そうだと、善兵衛に頷く。

「出帆する迄には、分かるであろう。あの身の熟しからして、ただの浪人では、ないことは確かじゃぞ。お孝の、恋仲であれば、表札が下がっておる筈じゃが? ひとりで住んでおるのかな? 何れ分かると思うが」

 ただの侍ではない、お孝の恋仲でもない。<すると一体、あの浪人は何であろうか?> 直吉達は、溜め息をつき、考え込んだ。

「あの浪人のことは、他言無用じゃぞ。皆、分っておろうな」

「へい、分かりやした。分かりやしたよ旦那」と、皆は頷いた。

 <奴の寝ぐらが、分かっただけでも上出来じゃな>

「それじゃあ、引き揚げとしようぞ」

「へい」

 家に入って行った浪人は、無造作に太刀を腰から引き抜くと、右手に持ち換えた。

深い溜め息をつくと、家の中へと上がった。「どうであった?吉衛門」

「うっん、繋ぎは付けて参った」

 吉衛門は、胡坐をかいて座った。

「左様か、ところで、援軍は無理であろうかのお〜」と、篠田弥之介は、首を傾げる。幾度の催促にも、援軍どころか密書の返事さえ来ない。資金も底をついていた。

「取締も、一段と厳しくなるであろうから、我らだけで、やるとすれば・・・」と言った吉衛門は、右に置いた太刀を掴む。

「心して、掛からねばならぬのお〜 唐物税を運ぶとすれば、矢張り船便のようじゃ」

「何処で仕入れた情報じゃ? 弥之介」

「荷役人夫達が、居酒屋唐吉楼で話している所を小耳に致した。廻船問屋日高弥榎門の持ち船らしい。恐らく、間違いあるまい」

「うむ〜 いま停泊している福龍丸か?」

「そう云うことじゃな」との、弥之介の言葉に、吉衛門は、畳の上に太刀を立て、<やるぞ>と、云った気迫を見せる。ところが弥之介は、やる気がなさそうに落着き払っている。そんな弥之介を見た吉衛門は、立てていた太刀をゆっくりと畳の上に置き、元に戻した。

貿易船から得られた唐物税を、鹿児島の御城下に運ぶ前に、奪ってしまえば、薩摩の経済は成り立たない。沈没は、間違いないことであった。狙うとすれば、船積みする前に奪うか、積み込んだ後、隙を見て奪うかであるが、二人は、名案を練った。

一夜明けた朝は、雪もすっかり溶けて、通りには賑やかさが戻っている。肌寒い風は、行き交う人の肌を刺す。過ぎて行く雲は、港に大きな影を落とし、錨を打つ浮かぶ数隻の貿易船は、波に身を任せて漂うかのように、勇姿を見せている。

中村文左衛門は、向井覚右衛門から聞いた密偵の取締を厳しくするとの情報を、各廻船問屋達に告げるのは、控える事にしていた。情報を流すと、いつかその情報が漏れるやも知れない。それでは取締の意味が無くなるとの配慮から、信頼できる回線問屋だけに限られた。覚右衛門の手足となって、働いてくれるかも知れないとの期待からであった。

 のんびりと家で過ごしていた文左衛門に、奄美大島近海で、天神丸が海賊に襲われ、焼き討ちに遇ったとの噂が耳に入って来た。

「直吉、誰に聞いたんじゃ?」一緒に文左衛門の家を訪れていた善兵衛と助蔵は、黙って聞いている。

「へい、先程入港した裕臨丸の船長に、聞いて、直ぐに報せねばと・・・・・」

「むう〜 襲われてしもうたか・・・・・」

天神丸は、同じ坊津を母港としている、主に明国との貿易船である。襲われた時の詳しい話を聞いた文左衛門は、心が重かった。唐物が、不足している現状では、またどこかの貿易船が、襲われるであろうことが予想できる。文左衛門は、密偵の取締りよりも海賊の取締り強化の方が、急務であると思った。

「それで、船頭」「何じゃ、善兵衛」

「わしらで、仇を討ちたいのじゃけど」

「気持ちは、分かるがのお〜 もう直ぐ、竺土への出帆が、控えておる身じゃぞ。お役人達に、任せておいた方が良かろう」

「船頭、薩摩の役人にゃあ、任せられねえ。おいら一人でも、討って出たい。彼奴らは、坊津の船を、舐めてけつかる」と助蔵は、文左衛門を睨み付ける。鼻息の荒くなった様子に、文左衛門は、「助蔵よ、落ち着け。まあ、まあ、待て」と、宥める。

「うむ〜」と言って、拳を握り締めている助蔵である。

天神丸には、知り合いや親友達が乗船していた。直吉や善兵衛の顔も、ひきつっている。彼らは悔しさを、じっと堪えていた。

「よし、皆。これから、飲もうぞ」

「えっ、船頭、今からですかい?」

「直吉、飲みたいんじゃろう?」

「へい」と、文左衛門に頷く。

「善兵衛、乗組員達を唐吉楼に呼んでくれ。用事のあるものは、構わぬぞ」

「へい、分かりやした。集合をかけやす」

 当然ではあるが、昼間から酒など飲ませる店はない。それでも、文左衛門達は、<どこかで飲めるさ>と、家を出た。

 まだ昼前であったが、文左衛門に頼まれたお鶴は、快く店を開けてくれた。<矢張りあった・・・>と、文左衛門。

居酒屋『唐吉楼』は、文左衛門達の思わぬ訪問によって眠りを覚ましたかのように、次第に賑やかになっていった。

集まって来た乗組員達は、それぞれ椅子に掛ける。手料理と酒が運ばれて、机の上に置かれて行く。さあ、宴会の始まりである。

「皆、きょうは、心置きなく飲んでくれ。勘定のことなど、心配要らぬぞ」と、文左衛門は、立ち上がると、皆を見回して言った。

 酒を、お互いに注ぎ合う。

「さあ、やってくれ」と言って、文左衛門は静かに腰掛けた。静かだった店の中に、ざわめきが戻った。酒を飲み交わし、手料理に箸をつける。天神丸の訃報を、聞いているだけに、乗組員達は何時になく暗い表情である。

お鶴は、察して直吉に何時もの太鼓を手渡す。

「女将、女将も、三味線を弾いてもらえねえか? 頼むよ」と、直吉。

「分かったわ」

「六兵衛達の弔いじゃ。派手に踊るぞ、ワラジ。彼奴らに届くようにな」「よっしゃ」

乗組員達が、机を退けて広々となった何時もの隅の方に、直吉は胡坐をかいて座った。お鶴は、その隣の椅子に座って、三味線を調弦する。

テン、テテン、テン、テン、テンテンテン転げ落ちるような太鼓の音に、弾け飛ぶような三味線の音が重なる。助蔵は寒さも忘れてか、裸に褌ひとつで踊りだした。

文左衛門は、忘れてしまいたい訃報の一つ一つを、杯に注ぎ、酒に包んで飲み込んだ。天神丸の船頭や、船長達と酒を飲み交わした思い出が、浮かんでは消えていく。実に、苦く淋しい酒であった。

賑やかに、宴席は進んで行く。女給達は、乗組員達にお酌をして回る。何時もの舞台では、捻り鉢巻きの善兵衛が踊りに加わり、笑いを誘っている。

 興禅寺の鐘の音が、坊の浦に響く。時は、既に夕暮れであった。近くの居酒屋や小料理屋に、灯りが燈り始めている。

 鐘の音に押されて、家路を急ぐ人の姿が、夕焼けの中にあった。

「いらっしゃい!」

店に入って来た浪人達に、女給が声をかけた。賑やか過ぎる中の様子に、驚きを見せた浪人達は、辺りを見回す。高島吉衛門と篠田弥之介であった。飲めや歌えの大騒ぎである直吉達は、二人には気付かないでいた。二人の浪人は、空いている席を探している様子である。近づいた女給は、人差し指で天井を指して、吉衛門達に確認する。吉衛門は、軽く頷いた。二人は、女給に案内されるまま、二階へと階段を上って行った。

 案内された部屋は、港の見える小さな部屋である。吉衛門と弥之介は、太刀を腰から抜くと、座布団に胡坐をかいて座った。

一階の賑やかな太鼓と三味線の音が、やけに気になる二人である。吉衛門は、机から離れて窓際に座った。窓をゆっくり開けると、船の灯りが、波間に漂っている。赤く焼ける港の中に、唐物税が積み込まれるであろう福龍丸の灯を探したが、多過ぎる船である。彼らには、判る筈もなかった。

「失礼します」と言って、女給が、酒を運んで部屋に入って来た。机の上に置いて行く。酒の肴は、鯵の開きのようである。

 吉衛門は、窓を閉めると、机の前に胡坐をかいた。女給が、お酌をしてくれる。

零れるくらいに酒が注がれ、二人は一気に飲み干した。<美味い、実に美味い酒である>「ふ〜っ」と、小刻みに首を振る吉衛門である。鯵の開きに、箸をつける。美味い、女将の手料理であった。

 女給は、お酌を終えると、「それじゃ、御ゆっくりね」と言って、静かに部屋から出て行く。それを、目で追う二人であった。

「お孝は、遅いのお〜」と、弥之介。

「必ず、来る筈じゃで、まっ、慌てず、のんびり待とうぞ」

「のんびりか? 明日をも知れぬ、我らじゃなあ〜 忘れておったわ。のんびりのお〜」 弥之介は徳利を手に、自分で酒を注ぎ、味わうように、ゆっくりと飲んだ。

 その頃、吉衛門達の後を付けていた大野忠永とその配下の者三人は、外の物陰に隠れて唐吉楼の様子を伺っていた。

外まで響く太鼓と三味線の音は、じっと待つ忠永の気持ちを苛立たせる。いっその事、店の中に入って、浪人達の様子を見張っていたい心境であった。

 唐吉楼を覗いたお客が、満席に諦めて引き返す。すれ違いに、女が、店の中に入った。<今の女は、確か・・・お孝ではないか? 何故、今頃・・・可笑しな話しよのお〜>

 忠永は、見覚えのある女に、首を傾げる。<逢引きなのか・・・それとも・・・>じっとしてはいられない忠永である。

「よし、店へ入るぞ」と、顎をしゃくって合図をする。「はっ」と、皆は、先頭に立ち歩きだした忠永に応えて、後を追う。

店に入ったお孝は、大騒ぎしている乗組員達に気付かれることもなく、二階の部屋に通されていた。女給は、空になった徳利を集めて机の上を拭いた後、黙って部屋から出て行った。お孝は、畏まって座っている。

「お孝、唐物税は、予想通りに福龍丸で運ばれるようじゃぞ」と、吉衛門は、自分で酒を注ぐ。弥之介は、吉衛門に頷いている。

「矢張りそう・・・」

「それで、いつ運ぶのか、囮じゃないのか、皆で探りを入れよう。木蓮には、薩摩の役人達や福龍丸の乗組員達が来るであろうから、それとなく聞き出してくれ」と、吉衛門。

「分かったわ」と、頷くお孝に、「その時は繋ぎを取ってくれ。我らも、繋ぎを取る」

「私らだけで、大丈夫なの?」

「仕方あるまい。やるしかない。心して、掛かってくれよ」と、弥之介。

お孝は、少し淋しい目を見せた。警備は、間違いなく強化され、奪い取るのは不可能に思われる。それを、敢えて実行しようとする二人の気持ちが、理解できなかった。

「はい、これ少しだけど」と言って、胸元から、何やら取り出したお孝は、その白い包みを机の上に置いた。

「いつも悪いのお〜」と、二人は恐縮する。机の上に置かれたのは、お孝が稼いだ、少しばかりの金子であった。

「失礼しま〜す」と、部屋の外から女給の声がする。「どうぞ」と、お孝は、明るい声を出し、女給に悟られまいと、あえて明るく振舞って見せた。女給が、手料理と酒を運んで部屋に入って来た。

一階の賑やかさとは裏腹に、部屋は静かである。手料理と酒が、机の上に置かれていく。置き終えた女給は、「ごゆっくり」と、愛想よく微笑んで、さっさと部屋から出て行った。

お孝は、二人にお酌をしてあげる。美味そうに飲む二人に、お孝は、くすっと笑った。自分の作る手料理と同じ位に、美味しい。箸をつける手料理を、自分のお店の手料理と比べながら、食べるお孝であった。

 唐吉楼の暖簾を潜った忠永は、お孝を探した。忠永に気付いた女給が、近づいて来る。「いらっしゃい!」と女給。

「いま女が、入って来たろう?」

「はい、待ち合わせですか?」

「いや、良いんじゃ。何処かに席は」と、辺りを見回す。「おお〜 あれは文左衛門じゃないか?それじゃあ、金現丸の連中か?」

「ご一緒なさいますか? さあ、こちらへ」頷いた忠永を、文左衛門の席へと案内する女給である。

忠永に気付いた文左衛門達は、軽く会釈をする。

「文左衛門、一緒に飲みたいのお〜」

「ささっ、ご遠慮なさらず。お座り下さい」との言葉に、隣に座っていた船長や航海士達が、さっと立ち上がり、「どうぞ」と、忠永達に席を譲る。

「いや、済まぬのお〜」と軽く会釈をして、忠永は椅子に腰掛けた。船長達は、他の席へと移動して行く。何時もの持て成しの作法である。

「さっ、大野様、おひとつ」

「うっ、頂こう」と、杯を差し出す。注がれた酒を、一気に飲み干した。女給のお里が、酒と肴を運んで来る。机に置いて、忠永にお酌をした後、伴の者にも、お酌をしていく。

「お里、先程、浪人が、来たであろう?」忠永は、お里を見上げて言った。

「ええ〜 二階の部屋に・・・」

「女と一緒か?」

「はい、ご一緒ですよ。お知り合い?」

「いや、そうではないが・・・」

 <矢張り、一緒であったか。・・・とすると、お孝は、密偵であったのか・・・>

「どうかなされたのですかな?大野様」

 首を傾げて、何やら考えた様子の忠永に、文左衛門は声を掛けた。

「いや、何でも御座らん。気を使われるな」「可笑しな大野様」と言って、お里は、他の席へとお酌をしに行った。

 太鼓と三味線のリズムが、酔いを増す。

太鼓は善兵衛に、三味線は女給に替わっている。文左衛門は、忠永達のいつもと違う様子が、気になっていた。

<何か、事が起こらねば良いが・・・>

「ところで、大野様。天神丸が、海賊に襲われたそうですが」

「存じておる」と頷き、「我らも、なんとかしたいと考えてはいるのじゃが、上手い手立ても思い当らぬ。勘合船を出しても、直ぐに逃げられてしまう始末」と溜め息をつき、腕組みをする。

 1471年(文明3年)に、薩摩は幕府から、渡琉船を勘合する権限を与えられて、臨検を主たる目的にしている武装した勘合船を持っていた。

「奴らの寝蔵を、見付け出さないことには、どうにもならないのじゃ御座いませんか?」

「奄美近海は、存じている通り、小さな島々が点在しておる。寝蔵は、一ヶ所に留まらずに、至る所に持っているようじゃ。おまけに見張りまで設けておる。狼煙を揚げ、連絡を取っているようじゃ」と、腕組みを解き、注がれた酒を一気に飲み干す。

「狼煙を揚げて?・・・それで、奴らに逃げられてしまうので御座いますか。海賊は、二派に別れているらしいですが?」

「奄美近海と琉球王国近海を縄張りに、争っているらしい・・・まあ、待て、文左衛門。必ずや、何とか致そうぞ。ここだけの話じゃがのお〜 我が薩摩は、奄美大島は勿論、琉球王国までも、手に入れんと画策しておる。その為には、海賊の存在は、無くせねばならぬ。何れ、潰されるであろう」

「いつ実行なさるので?」

「近々・・・」

「近々で御座いますか?」

「左様、近々じゃ」

忠永の話は、何とも当てにならない話であった。我が身は、自分で守らなければならないようである。防御策を、考えておかねばならぬ。新に武器の積込みを、考えていた。

太鼓の音が止み、三味線の音に合わせて、お鶴が歌う。酒盛りは、お鶴の歌に因って弾みがついて行く。暗く沈んでいた乗組員達の心は、何時の間にか、明るくなっていた。

 宴席は、文左衛門の心配を余所に、何事もなく賑やかに進んで行った。

「文左衛門、今宵は楽しかったぞ。我らは、未だ薮用があるんでな、これで失礼致す」

忠永は、立ち上がると、自分達の勘定だと机に置いた。文左衛門は、男の沽券に係わると、机の上に置かれた小銭を、忠永に突き返したが、忠永は、右手を前に出して制する。忠永達は、軽く会釈をすると、店から出て行った。その後ろ姿に、文左衛門は、「うむ〜侍じゃのお〜」と、感心するだけであった。

高島吉衛門と篠田弥之介の行動は、役人達に因って、四六時中見張られ、把握されている。山には桜が、綻び始める季節となっていた。

向井覚右衛門は、唐船奉行平田清重郎から仰せつかった唐物税を運搬する警備について話す為に、大野忠永始め配下の者達を、藩邸に集めていた。奉行所を兼ねた薩摩藩邸である。

「唐物税の福龍丸への積み込みは、七日後と致す。桟橋に、小船が着く手筈になっておる故、先ずは荷車から、小船への積込みを行ない、三名が一緒に乗り込んでくれ。後の者達は、それぞれ別れて小船に乗り込んでくれ」「御意!」

「恐らく、積み降ろす前に、賊が襲って来るであろうから、峰打ちに致せ。斬ってはならぬぞ。必ず生け捕りに致せ、良いな」

 皆は、互いに顔を見合わせた。賊が襲うのは、有り得ることであったが、覚右衛門が断言している。皆は、斬り合いを覚悟した。

「それから、忠永。そなたは、積み込みの情報を、小料理屋木蓮のお孝に、それとなく流すように。今夜にでも行ってくれ」

 お孝達の企みは、未だ知らない覚右衛門であったが。餌を与えれば、必ず食らい付いて来ると読んでいた。

「御意!早速に出掛けましょう。例の奴らは、如何致しましょうや?」

「今まで通りで、良かろう。積み込みのことを知ったお孝は、繋ぎを取る筈じゃ。気付かれぬように、泳がせておけ」「ははっ!」

「それじゃ、それぞれの役職に就いてくれ」「ははっ!」と、皆は、深々と頭を下げた。

話を終えた向井覚右衛門は、、伴の者を二人伴って、福龍丸への唐物税の積み込み予定を知らせるべく、廻船問屋日高弥榎門の家へと向かった。白い蔵屋敷の通りを抜けて、弥榎門の家に着いた覚右衛門は、門を潜って中へ入って行った。広い石畳の庭は、不揃いででこぼこしていて、年代を思わせる。

「頼もう!弥榎門、居るか?頼もう!」

 玄関を開けた覚右衛門は、大きな声で叫んだ。その声に、女中が急いで現われた。

「弥榎門殿は、御出でかな?」

「はい、旦那様は、いらっしゃいます。文左衛門様と、お話していらっしゃいます」

「何、文左衛門と・・・」

「はい、さあ、此方へどうぞ」覚右衛門達の前に、正座をしている女中は落ち着いた声を出した。

覚右衛門達は、遠慮無く女中に案内されて上がって行く。

「旦那様、向井様です」

「うむっ、分かった」

 部屋の外から、声を掛けた女中に応える。覚右衛門達は、部屋に通された。

「これは、これは、向井様。よく御出で下さいました。ささっ、そちらへどうぞ」

「弥榎門、失礼致すぞ。文左衛門、そなたも忙しいことじゃのお〜」と、弥榎門に示された上座に、座りながら言った。伴の者達は、覚右衛門の左側横に、並んで正座をした。

向かい合わせに座っていた文左衛門と弥榎門は、上座に向きを変えると、覚右衛門に深々と頭を下げた。覚右衛門は、軽く頷き応えるだけである。

「弥榎門、福龍丸は、どんな具合じゃな?」「はい、出帆準備は、既に出来ております。何時でも、宜しいですよ」

「左様か、唐物税の積込みは、予定通りに十日後に行なう。七日後に積み込むとの偽情報を流しておく故、乗組員達にも七日後と云うことにしておいてくれ」

「はい、分かっております」

「開聞崎沖に、勘合船を待機させるように、密書を送ってあるから、安心して通過致せ」「はっ!」と、会釈をする弥榎門である。

「七日後には、囮の船を出帆させる故、大事ない」と、覚右衛門は、身を乗り出す。

「停泊している、勘合船で御座いますね?」

「左様、あの船で運ぶとの、情報をも流しておく。海賊の目も欺ける筈じゃ」

「その海賊で御座いますが、向井様」

「文左衛門、海賊が如何致したか?」

「はい、我らは、竺土への出帆を控えております。出帆船ですので、そのようなことはないとは思いますが、下手をすれば、襲われるやも知れませぬ。何とか、成らぬものかと」

「その事じゃがのお〜 文左衛門、唐船奉行とも今、検討致しておる所なんじゃ。何れ我らの手で、退治せねばならぬであろう。今暫らく、待ってはもらえぬか?」

「はっ、分かっておりますが、唐物も品薄になっております故、海賊の餌食になる船が、これ以上、出ねば宜しいのですが・・・」

「うむ〜」と、唸った後、「勘合船の威力も薄れている昨今、海賊の奴らを、必ずや驚かせて見せるぞ」と、覚右衛門はいきり立つ。

「何か得策でも、お有りで御座いますか?」

「文左衛門、得策があったら海賊なんぞ、とっくに退治しているわさ。拙者の方が、聞きたいくらいじゃ」

 <凄味を効かせている顔に似合わず、いい加減なお方じゃ・・・> 覚右衛門の返事に文左衛門は、可笑しくなって笑った。弥榎門も可笑しかった。<海のことなど解らぬ向井様には、退治する策略など、到底無理な話じゃ・・・ここはひとつ、我らで考えなければならぬようじゃ>文左衛門は、真剣な眼差しを見せた。

「失礼します」と言って、女中が、お茶を運んで部屋に入って来た。正座をして、頭を下げる女中は、良く鍛練されている。洗練されたその姿に、覚右衛門は、感心した様子を示した。お茶を置き終えた女中は、静かに部屋から出て行った。覚右衛門は、出されたお茶をゆっくりと啜る。文左衛門も、お茶をじっくりと味わった。

「向井様、例の密偵の方は、どうなっておりますか?」と、お茶碗を置いた文左衛門に。「計画通りに行っておるぞ。ただ、うんと、首を縦に振るかじゃな」

「それは、向井様のお人柄からして、間違いなくお味方になるでしょう」

「何と、密偵をお味方になさるので御座いますか?向井様、危のお〜 御座いますよ」

「弥榎門、心配致すな。奴らは、信義に厚き者達じゃ。奴らの行動は今、調べあげている」

「左様で御座いましたか」と言って、納得したように軽く頷いた弥榎門は、お茶碗を手にすると、ゆっくりとお茶を啜った。

夕暮れは、帆走する船のように、目の前にやって来るのが、早かった。浮かぶ貿易船に灯りが燈る頃、大野忠永は伴の者二人を連れて、遠くに見える小料理屋木蓮の提燈の火を、目指して歩いた。家路を急ぐ、職人風の男達にすれ違う。わき目も振らず歩いた。

 店の前に着くと、ためらうことなく暖簾を潜って、中に入った。

「いらっしゃい!」と、忠永達に気付いた女給が、微笑んで迎える。張りのある声であった。二階の部屋を指定して、頷く女給に案内されるまま、階段を上って行った。

障子が開けられ、部屋に入った忠永の目に飛び込んで来たのは、窓から見える浮かぶ貿易船の姿であった。海の上に灯りを揺らすその姿は、未だ見ぬ異国を思わせる。「うっ〜」と、忠永はあまりの美しさに、思わず感動の溜め息をついた。

女給が、部屋の片隅から取り出して置いてくれた座布団に座った忠永は、浮かぶ貿易船を振り向いた。ゆらゆらと怪しげに揺れる灯りに、吸い込まれていくような錯覚に襲われる。<美しいのお・・・>見慣れた夜景ではあったが、暮れゆく坊の浦の夜景は、ひときわ美しいと思った。

女給が、「それじゃ」と言って、部屋から出て行く。我に戻った忠永は、女給の後ろ姿を目で追った。

「お孝は、我らの席に来ますか?」と、伴の者。

「必ず来るであろう。知りたい情報を、握っていると思っているであろうからのお〜 何としても、聞き出そうとする筈じゃよ」

「何を聞き出そうとするでしょうか?」

「そこじゃよ。それが分かれば、奴らの狙いが、自ずと判るであろう」

「成程・・・」

 暫らくの沈黙の後、部屋の外から、「失礼します」との声に、「入れ!」と、忠永は、落ち着いた声を発した。

 障子を開けて入って来たのは、忠永達の思惑通り、他の女給とお孝であった。

 お孝は、机の上に手料理を乗せていく。

忠永達は、知らぬ振りをして、女給達が手料理と酒を置き終えるのを待った。

「さっ、おひとつどうぞ」と、徳利を手に女給が、酒を薦める。忠永は杯を持ち、徳利の方に手を差し出す。酒は、溢れんばかりに注がれた。お孝も、伴の者に酒を注いでいる。忠永は、ゆっくりと酒を飲み干した。

「ささっ、お主もどうじゃ? ひとつ」

「いえ、私は」と、女給は、徳利を手にして酒を薦める忠永に、飲めぬと断る。

「左様か、お孝、お孝はどうじゃ」と、酒を薦める忠永に、微笑みながら近付いて来たお孝は、「ええ〜 頂きますよ。先ずは、大野様から、おひとつ如何?」と、忠永の持っていた徳利をもらって、酒を注ぐ。

「お孝ちゃん、後は宜しくね」と言って、他の女給は、頷くお孝を残して、さっさと部屋から出て行った。忠永は、お孝にお酌をしている。伴の者達も、互いに酒を酌み交わす。注がれた酒を、お孝は、一気に飲み干し、「ふ〜っ」と言って、顔を赤らめる。

 <可愛い奴じゃのお〜 拙者には、斬れぬわ。この女、一体どこの密偵であろうか?> 忠永は、手料理に箸を付けた。

忠永は、お酌をしてくれるお孝の様子を、伺う。密偵とは、到底予想もつかない。

<これでは、密偵などとは、誰も気がつくまい。剣を持たせたら、誰も叶わぬ凄腕ではあるまいのお〜 ああ〜 桑原、桑原>忠永は、勝手な想像をするだけであった。

「さっ、大野様」と言って、徳利を差し出すお孝に、「綺麗な夜景じゃのお〜」と、港に目を向けさせる。

「あの船は、どこの船かしらねえ〜 暗くて良く見えないわ」と、お孝。

「薩摩の勘合船も停泊しておる」

「勘合船って、唐物税を運んでいると云う」お孝は、もしやと思って、釣ってみた。

「お孝、良く存じておるのお〜 海賊達の手前、誰も知らぬ筈じゃが」

 <思った通りね。何時積み込むのかしら>「いえね、乗組員の方達にちらっと、お聞きしたもので・・・」

「左様か・・・・・」<この雌狐めが>

「本当で御座いますの? 大野様」「何のことじゃ」「あら御存知の筈でしょ? 唐物税を運ぶ・・・」

「ああ・・・七日後に、鹿児島の御城下へ向けて出帆致す手筈になっておる。午時(正午頃)を以て、運び込む所存じゃ」

「そうですの・・・陸路は、危ないですものねえ〜」と、浮かぶ船に目をやった。

「陸路は、囮の荷馬車を使う。目立つようにのお〜 荷馬車には、藩士達が、忍び隠れておる、誰も判らぬ筈じゃ・・・」

 お孝は、まんまと偽の情報を、掴まされてしまった。それとは知らずに、勘合船の灯を探すお孝であった。

「失礼します。お孝ちゃん、直さん達がお呼びよ」と、正座をしてゆっくりと障子を開けた女給は、お孝を覗き込むようにして、返事を待った。

「宜しいかしら?」と、忠永に許しを請う。「ああ、良いともよ。あ奴らも、来ておるのか? 竺土への出帆を、間近に控えておるからのお〜 心置きなく、飲ませてやれ」

 偽の情報は、流した。お孝には、もう用のない忠永達であった。

「分かったわ。大野様、それじゃあ、失礼します」と言って、お孝は会釈をすると、他の女給と一緒に部屋から出て行った。

「矢張り、唐物税が、狙いでしたねえ」

「予想通りであったのお〜 我らも、今宵は何もかも忘れて、飲もうぞ」「ははっ」

偽情報を掴ませるという難問は、終わったようである。酒を飲み交わす、忠永達であった。

お孝は教えられた別の部屋の前に座ると、「失礼します」と言って、障子を開けた。

「お孝ちゃん、さささ、さあ、こっちへ」直吉は、手招きをしてお孝を呼んだ。

「皆さん、お揃いで・・・どうなさったの?木蓮の暖簾を潜るなんて、珍しいこと」お孝は、机の前に歩み寄り、微笑んで皆を見回すようにした。

「お孝ちゃんの顔が、見たくなって、皆して飲みに来たって訳よ。あっしらは、思い残すことがないように、していたいんで・・・」 六助は、淋しい表情を見せた。直吉、善兵衛、助蔵達も、六助の言葉に、淋しさを隠しきれない様子であった。

お孝には、六助達の気持ちが、痛いほど良く理解できる。自分も、両親と遠く離れて、見知らぬ坊津で、生活している。役職とは云え、女の独り身は、青く澄む深い深い海の底に、心が落ちて行くような淋しさがあった。竺土への出帆を控え、愛する人との別れもあるであろう。<お酒で、癒したいのね?>

「さあ、そんな顔していないで」お孝は、徳利を手にすると、手を伸ばして一番近くに座る善兵衛に、お酌をする。そして、笑顔を見せてひとりずつ、お酌をしていった。

「お孝ちゃんも、どうじゃい?」

「あら、宜しいの?」と、徳利を差し出す直吉に、杯持つ手を伸ばす。

一気に飲み干すお孝に、「いけますねえ〜 お孝ちゃん」と、直吉は、微笑む。その様子を、皆は、観察するかのように、見詰めている。惚れ惚れするお孝に、皆の動きは止まっていた。

「私の作った手料理も、美味しいわよ。ささっ、食べてみて」との言葉に、皆は手料理に箸を付ける。<お孝ちゃんが作ったとは・・・・・美味い、舌が蕩けるようじゃ>皆は、お孝の手料理を、じっくりと噛み締めるように味わった。その食べ方は、心に刻み込むような、味わい方であった。

「さっ、助蔵さん」と言って、徳利を差し出すお孝に、会釈をして酒を受ける。助蔵も、微酔い気分である。赤らんだ項に、お孝の色気を感じていた。

手料理に箸をつけ、酒を飲み交わす。いつもの賑やかさはなく、静かに進んで行った。

「六さん、博打場は、どうなの?」

「うっ」と、お孝の突然の質問に、料理を喉に詰まらせる六助である。賭博は、禁止されてはいるが、博打好きが寄り集まって、民家の片隅で、花札賭博をやっている。お孝に知れているとは。六助は、目を丸めて、答えに困った。慌てる六助を見たお孝は、可笑しくて「くすっ」と、笑いを吹き出した。

「大丈夫よ、六さん。言いやしないわよ」

「六助と来たら、博打に女と、眼がないからなあ〜 お孝ちゃんよ、六助の尻に、でっかい御灸をしてやってくんない」直吉は、六助を見て言った。

六助は、直吉を睨み付ける。お孝はその様子に微笑んで、「あら、六さんのお尻に? 見てみたいけどねえ〜 六さんのお尻。大きな御灸だと、飛び上がっちゃうわよ」と、大きく笑う。

「俺の尻は、見せ物んじゃねえんじゃい!けっ、何を言って、けつかる」

「何でも、銀蔵さん所の桃に、そっくりじゃと云う噂、聞いたぞ、六助。店に並べたら良かろう」と、善兵衛も六助を揶揄う。

「だったら、高く売れるわねえ〜」

「お孝ちゃんまで、あっしを揶揄うんじゃねえよ・・・全く・・・」と、自分で酒を注ぐ。

 皆は、怒った六助を見て、肩を震わせて笑った。外方を向く六助である。

「お孝ちゃん!お客様が、お呼びよ」女給が、部屋の外から大きな声で呼んだ。「一階へ行って頂戴!」

「は〜い、今行きます。六さん、もっと博打の話、聞きたかったのにねえ〜 お客様のお呼びじゃあ〜 行かない訳、いかないし」

「良いよ、お孝ちゃん。行っといで」六助は、労わるように言った。

「それじゃね、皆さん、御ゆっくりね」と言って、お孝は会釈をすると、部屋から出て行った。

お孝の居なくなった部屋は静かで、会話の途切れる直吉達であった。「ぱっと、いこうか。ぱっと」助蔵は、部屋の片隅に置いてあった三味線を手にすると、調弦して弾きだした。

 静かな部屋に、三味線の音が静かに響く。一階の賑やかさとは、対照的である。助蔵の三味線の音を肴に、酒を飲み交わす直吉達であった。

 一階は、腰掛ける所が無いくらいに、いつものように繁盛している。お孝は、お客の隣に腰掛けて、お酌をしていた。

「お孝ちゃんのお酌してくれる酒は、また一段と美味いのお〜」と言って、男は大きな腹を、揺さ振るようにして笑う。船大工の頭領である勇吉は、見え透いたお世辞を言った。

「あらあら、お酒もだいぶ回っているようね頭領。女将さんが聞いたら、何と言うかしらねえ〜 お茶碗が、飛んで来るわよ」下手なお世辞に、脅しを掛ける。

「女房が恐くて、酒なんぞ飲めるかい」いきり立つ頭領は、「なあ、お前ら、女房なんぞに、首根っ子を捕まえられるんじゃねえぞ。男ってえのはなあ〜 肝っ玉よ。分かるか、お前ら。ど〜んと、ど〜んと、じゃ」

「お頭、分かりやすが、女将さんは、良うできたお方で、あっしの女房とは、段違い」

「うむっ、お前の躾が良くないんじゃ。女房ってえのはな、男を立てなきゃあなんねえ〜それを、お前んとこの女房は、平気な顔でお前を顎で漕ぎ使ってやがる」「へい」

「へい、じゃねえぞ」

「まあ、頭領、ささっ、おひとつ」と、お孝は、頭領に酒を薦めて、愚痴るのを止めさせる。隣のお客は、頭領の言葉に、思い当る節でもあるのであろうか? 愚痴に耳を傾け、苦笑いを浮かべている。席を埋めているお客達は、賑やかに酒を飲み交わしている。その中に、お店の片隅で静かに飲んでいる高島吉衛門と篠田弥之介の姿があった。お孝は、とっくに気付いているのであったが、皆がいる手前、二人に近付くのは控えていた。

「お孝ちゃん、酒、酒が無いぞ。ういっ」

 頭領は、徳利をお孝の目の前に上げて、空であると横に振って見せる。

お孝は、空の徳利を持って、酒を取りに席を立った。他の女給が、頭領達の席に酒を運ぶ。お孝は、さり気なく吉衛門達の席へと近付いて行った。

持って来た徳利を机の上に置き、吉衛門に、「お侍さん、おひとつどうぞ」と、酒を薦める。酒を薦めながら、白い紙切れを手渡した。先程、大野忠永から得た偽情報が、書かれてある文である。お客達に気付かれてはいけないと、吉衛門は、とっさに袖の中に入れた。杯に、溢れる程の酒が注がれる。

次に、弥之介へと、酒を注ぐお孝である。

「それじゃあ、お侍さん、御ゆっくりね」酒を飲み干した吉衛門達に言うと、お孝は席を立って、他の席へと回る。

にっこり微笑んで、愛嬌良く振る舞うお孝であった。

坊の浦に浮かぶ貿易船は、暗い海の中に灯りを揺らす。何処からともなく、時には賑やかに、時にはしっとりとした三味線の音が聞こえて来る。当直の乗組員達は、三味線の音を潮騒と重ねて、眠気を覚ます。

 小料理屋『木蓮』は、それぞれが思い思いの思惑を秘めて、賑やかに過ぎて行った。

 

       三

隠れ家は、昼間だと云うのに薄暗かった。繋ぎを取った吉衛門達は、お孝の来るのを待っていた。残された時間は、後三日と迫っている。計画を変更する余裕は、無い。外の物音に気づいた吉衛門と弥之介は、太刀を手にして、敵の打ち込みを待った。

「鳩、私よ」と、お孝の合い言葉に、吉衛門は安心した様子を示し、「入れ」と、小さな声で言った。いざと言う時の、兼ねてから打ち合わせておいた合言葉である。弥之介も、見方だと知って太刀から手を離す。家に上がったお孝は、正座をして、吉衛門が話す唐物税の略奪の計画に、耳を傾ける。

「藩邸は、見張りが厳しく、奪うのは無理のようじゃ。桟橋に着く手前で、我らが斬り込む。松の木が我らの姿を隠し、斬り掛かるのには都合が良い。奪った金子は、漁船を近くに繋いであるから、素早く積み込む」

「二人だけで大丈夫なの?」

「心配無用じゃ」と、吉衛門。

「向井、大野と薩摩は、凄腕揃いよ」

心配するお孝に、「襲って来るとは、思ってもいない筈じゃから、油断している。そこを、ひと太刀で仕留める」まさか罠とも知らず、勝算を読んでいる。お孝の不安は、当たっていた。

「失敗ったら、お孝、そなたは逃げてくれ。我らは、最後まで戦う覚悟じゃ」弥之介は、厳しい目をして言った。

「私だって、戦うわよ。覚悟は、既に出来ているわ」と、胸元に挿す短刀に手をあてる。

「それは困る。後に続く者が、坊津に派遣されて来る筈じゃ。その時に、そなたが居なけりゃどうなる?」と、吉衛門。

 考え込むお孝である。

「そうね、だけど・・・」

「心配致すでない」と、吉衛門は、楽観的である。弥之介も、頷いて見せる。

計略の全てを聞き終えたお孝は、戸を少し開けて、誰にも知られぬようにと辺りを見回して隠れ家を出た。だが、役人達が、張っていた。そうとも知らず、お店へと急いだ。

「矢張り、お孝でしたねえ」

 家に入る時に、顔を隠すように被っていた手拭は、取っている。近くの物陰に隠れている役人は、顎を手で擦りながら言った。

「そうじゃのお〜 いよいよ、やるな。彼奴らは。向井様に報告致そう。そなた達は、ここで待て。奴らを見張っていてくれ」と、向井覚右衛門配下の見張りについていた茅野政次郎は、太刀に左手を添えた。

「御意」と、二人の、伴の役人達は頷く。

唐物税襲撃のことを考えると、足取りが重くなる。お孝は、俯き歩いた。不揃いの四角に切った石畳は、計略を嘲笑っているかのようにお孝には思える。ごつごつとした肌色が、足に堪えて来る。剣の達人が派遣されている坊津の唐物税を、そう容易く奪えるとは思えない。二人の身が案じられた。薩摩を沈没させる手立ては、他にはないものかと、思案して歩いた。

唐物税を積み込むであろうと聞かされている勘合船が、目の前に大きく迫って来るような錯覚に襲われる。久し振りに見る太陽の光は、海を照らし、眩しいくらいにきらきらと輝く。漂う貿易船に乗って、いっそのこと竺土へでも行けたらと思った。

「お孝ちゃん、どうしたい。こんな時間に、珍しいのお〜」「あら、誰かと思えば」

文左衛門であった。航海士の源四郎と助蔵を伴に、停泊している金現丸に向かう所であった。うつむき歩くお孝の姿に、<何か考え事でもあるのか?>と、お孝の身を案じて、声をかけた文左衛門は、溜め息をつくお孝に、微笑んだ。

「恋でも、しているのかい? 沈んだ顔をして・・・何時ものお孝ちゃんじゃ、ないみたいじゃのお〜」

「ええ〜 お船に恋してしまって・・・良いわね、私も何処か、遠くへ行ってみたいわ」

「良いぞ、連れて行っても。のお〜 船長」

「お孝ちゃんなら、皆も大歓迎でしょう」

「あら、そうかしら? 足でまといじゃなくって・・ほら、ちゃんと顔に書いてあるわ」

お孝は、源四郎の顔を覗く。源四郎は、お孝に見られて、身を引いた。

「さあっ、行こうか?」

 文左衛門は、お孝と肩並べて歩いた。

「それじゃ、お孝ちゃん、気をつけてな」

「ありがとう、今夜にでもお店に来てね。じゃ、これで」

 文左衛門は、軽く頷き、お孝と別れた。<お孝さんが、船に乗りたいとはのお〜>お孝の後ろ姿を見送る文左衛門達である。

繁華な通りを抜けて、桟橋は直ぐだった。

貿易船への通船が、二隻繋がれている。

「親爺、頼むで!」「へい!」と、言って、煙管を舷側で、「ぽんぽん」と叩き、詰められた煙草を海に落とした後、「ふっ、ふっ」と、煙管を吹く。ゆっくりと仕舞って、乗り込む文左衛門達に、親爺は頭を下げた。

船が少し傾いた。復元するのを待って親爺は、長い竹竿で、船を押して沖に押し出す。船首を沖に向けた通船は、鏡のような海に航跡を残して、金現丸を目指して進んで行く。櫓を漕ぐ軋む音が、港に響いていた。

 通船は、金現丸に横付けした。当直の乗組員が、文左衛門達に手を上げる。

 船から縄梯子が投げられ、文左衛門達は、ひとりずつ船に乗り込んで行った。

その頃、向井覚右衛門は藩邸に、廻船問屋日高弥榎門の訪問を受けていた。上座には覚右衛門が正座をして座り、下座には弥榎門が、畏まって正座をして座る。堅い表情の弥榎門は、覚右衛門の話に頷き、耳を傾ける。

「唐物税を積み込むとなれば、何かと不安であろう? 役人を三人程乗船させる故、安心して運んでくれ」

「海賊の襲撃に備えて、我らも武器の類は、積み込んでおりますが、示現流の達人達が、乗船して下されば、心強よう存じます」

「密書を送り、連絡は既に致してあるので、御城下の藩士達が出迎えるであろう。引渡しには、船長立合の許で行なってくれ」

「はい!今回は、私も乗船致す所存で御座います。間違いの無きように、心してお運び致します」と、弥榎門は、深く頭を下げた。

「そなたの事じゃ、間違いないと思うが・・・・・密偵、海賊と気を付けてくれよ。勘合船も、護衛にあたる」

「はっ!」と言って、又、深く頭を下げた。

「向井様、張っていた茅野政次郎が、帰って来ましたが・・・」

「通せ」と、覚右衛門は、急ぎの用事だろうと弥榎門に悟って言った。

「失礼致します」と言って、政次郎が、部屋に入って来た。弥榎門は、部屋に入って来た政次郎に、軽く頭を下げる。政次郎は、覚右衛門に対面して座ると、頭を下げた。

「どうした、政次郎」との覚右衛門に、「はっ、宜しいのですか?」と、弥榎門を見る。「構わぬ、弥榎門じゃぞ」

「はっ、女は、家に入って行きまして御座います。間違いなく、動き出すようです」

「うっ、分かっておる。餌に食い付いて来おったか」と、覚右衛門は、腕組みをする。

「女は直ぐに、出て行きましたが、奴らは、まだ家に閉じ篭もっております」

「むう〜 左様か・・・夜の方が、動き易いようじゃのお〜」と、腕組みを解いた。

「向井様、何かあったので御座いますか?」

「例の、密偵達じゃ」

「はあ〜 例の?・・・」と、弥榎門。

「薩摩を潰したいようじゃ」と言って、<出来る筈はない>と、覚右衛門は笑った。

「何と、大それた事を」眼を丸めて、驚いた様子を示す。

「そんな奴らが、入り込んでいるのでな、気は抜けぬぞ。苦労して運んで来た唐物など、取られぬように致せよ」

「はい、肝に命じて」と、会釈をする。

 黙って聞いていた政次郎は、会話の途中であったが、「それでは・・・拙者は、これにて」と、覚右衛門に深く頭を下げる。

「御苦労であった。続けてくれ」との覚右衛門に、「御意」と、応える。

 政次郎は、ゆっくりと立ち上がり、部屋から出て、元の見張りに戻って行った。

「それにしても、以前にも増して、物騒じゃ御座いませんか?」

「明国が、貿易を禁止してから、益々海の治安は、悪うなったようじゃのお〜」

「近年、海賊らも、活発な動きを見せているようですが、密偵の動きも、無視できないようですねえ〜 困ったもんで御座いますよ」と、弥榎門は、愚痴を零す。

「何とかせねばと、思ってはいるのじゃが、海賊の奴らには、裏をかかれるし、密偵達には、命を狙われるし・・・面目もない。何れ面子の保たれる日も来るであろうが、とにかく、気を付けてくれよ」 「はいっ、武装致して何とか、我が身を守っておりまする」

「うむっ」

栄松山興禅寺は、いつになく静かで鴬の声が谷間に響いていた。石門を潜った直吉と善兵衛は、石畳の庭を通り抜けて、本堂を覗いたが人影は無く、二人は別棟へと向かった。

「直吉さんに、善兵衛さんでは御座いませんか? 御住職に何か?」と、修業僧が声をかけた。二人は、振り向き会釈をする。

「住職は、居るんかいのお〜」と、直吉。

「いらっしいますが、只今、お客様にて」

「お客様じゃと・・・何じゃい、折角来たのにのお〜 帰るか? 善兵衛」

「そうさなあ〜 帰るとするか」

「まあまあ、待って下され。御住職に聞いて来ます故」と、右手を前に出て制し、帰ろうとする二人を止める。

「そうかい、じゃあ、待つか」

直吉は、善兵衛に確認する。善兵衛は、待つと頷いた。修業僧は二人に会釈をすると、廊下に上がり、急ぎ足で住職覚龍の部屋へと消えて行った。

「そうで御座いますか・・・今度の船便にて都へ発たれますか・・・」

 覚龍は、向かい側に座る虚無僧姿の、三人の男達を、ひとりずつ見ながら言った。

「御住職には、色々とお世話になり申した。また、お会い出来ることを、心から願っておりますが、あのような戦乱の世では・・・」言い終わると、暗い表情を見せる。

「いつか必ずや、お会い出来る日が来ることで御座いましょう。都へお帰りになられたら、近衛様には、呉々も宜しくお伝え下されよ」

 覚龍は、静かな声で言った。

「分かりました、お伝え致しましょう」

 修業僧が、部屋に入って来て、覚龍に耳打ちをした。覚龍は頷き、「構わない、通しなさい」と、小さな声で言った。

 修業僧は、虚無僧達に会釈をすると、部屋から出て行った。

 暫らくして、修業僧は直吉と善兵衛を案内して、部屋に入って来た。

「直吉、善兵衛、ささっ、突っ立っていないで、そこへお座りなさい」

住職覚龍は、左手を指して座るように薦めた。虚無僧達は、直吉と善兵衛の為に、少し左へと移動して席を譲る。直吉達は、申し分けなさそうに、対面する虚無僧達に頭を下げた。

「ここに御出でなのは、近衛家の家臣、進藤十四郎、松本玄之介、竹井助左衛門殿じゃ」

 畏まっている正座の二人に、紹介した。虚無僧達は、直吉と善兵衛に会釈をする。

<近衛の家臣達が、何で虚無僧なんぞに化けているんかいのお〜>

「こちらは、貿易船に乗り込んでいる、直吉に善兵衛で御座います。近々、竺土へ向けて出帆する手筈になっております」

「竺土で御座いますか? そんな所にまで行っておりましたか・・・」

 十四郎は、直吉達に目をやった。

「そこの二人は、今はそうやって、貿易船に乗り込んでおりますがな、先代は近衛家の家臣でした。坊津に派遣されていた近衛の家臣達は、細川の策略に因って、捨て石にされたので御座います。今では、貿易商になったり、貿易船に乗り込んだりと、政経を経てている訳で御座いますよ。薩摩の時代になってからは、不運と云えば、不運でしょう。しかし、戦渦に巻き込まれることも御座らんで、その方が良かったのかも知れませんぬが」

「我らも、坊津の近衛家家臣達のことは、聞き及んでおります。何の手立てもなく、救えなかった・・・こうやって、我らの先祖と苦楽を共にした皆様達と身近に接することが出来て、嬉しく存じます」玄之介は、二人に深く頭を下げた。

「同じ近衛家の家臣です。どうでしょう、我らと一緒に都へ参りませぬか?」十四郎は二人を見て、熱っぽく直吉に善兵衛を誘った。

「家臣に戻れと仰るんで?」「左様」

「あっしらは、船に乗り異国を旅するのが、性に合っているようです」と、直吉は、素っ気なく言った。

「うむ〜」と、十四郎は、唸る。

「それに、あっしらの先祖は、近衛に見捨てられたと、言い伝えに聞いておりやす。それを今更、近衛の為に働けとは・・・・・・情けない話じゃあないですか? 尻尾を振って、戻れる訳はないでやしょう?」

「坊津にいても、それ程の働きは無いに等しい。それよりも、都へ行き、人の為に働いては、如何でしょうか?」

 玄之介は、二人を説得するが・・・・・

「人の為と仰いますが、戦火の火種を撒き散らし、何が人の為でやしょうか? 多くの民や百姓達は、泣いていると聞いておりやす。それこそ、迷惑な話です」と、直吉は詰った。

「迷惑とは、心外な・・・我らは、住み良い世が来るようにと、願っての事」

 助左衛門は、声を荒げて、少し怒った。

「あっしら民にとっては、それは余計なお世話なのでやすよ。人の為と思い込み、実は自分達の為だとは、気が付かないのでやすねえ〜」 善兵衛は、助左衛門を見て言った。

「うむ〜」

「あっしらは、もう薩摩の人間なのです。異国を回り、多くの人達に逢うことの方が、意義深いのでやすよ。わざわざ薩摩に、密偵として来るよりも、胸を張り、近衛の船で堂々と乗り付けたらどうでやしょうか? その方が、薩摩は驚き、味方につくかもなあ〜 直吉」

「そうそう、領土の争いをするよりも」

 直吉は、善兵衛に頷く。覚龍は、黙って聞いていたが、「二人を説得なさるのは、無理のようですねえ〜 無理も御座いません。これまで、近衛のやってきた彼らに対する態度は、かつての家臣達をも、敵に回しているようです。本来なら、真っ先にお味方につき、何かと協力する筈ですが?」

「そうでしたか・・・冷たい態度に、怒っていらっしゃったとは、我らは気が付きませなんだ。近衛家の家臣達が、いる筈だとは、分かっていたのですが、誰も近付いて来ない。今ようやく、その訳が解り申した」十四郎は頷き、直吉達に頭を下げた。坊津に派遣されていた近衛家の家臣達の苦労は、聞いて知ってはいたが、聞いていた以上の苦労であっただろうと、十四郎は、頭の下がる思いであった。

「きょうのことは、必ずや近衛様にお伝え致します」と、玄之介は、覚龍に頭を下げた。覚龍は、軽く頷いている。かつて近衛の家臣だった人達の、<酬われる日も近い>と、思う覚龍であった。

覚龍は直吉と善兵衛に目をやると、思い出したように、「それで、何か用があったのでは?」と、二人に尋ねる。

「へい、あっしらは、御存じのように近々、竺土へ向けて出帆致しやす。御住職に、挨拶に来た訳でして・・・」と、直吉。

「左様か・・・竺土とは又、遠い所へのお〜 航海の安全を、祈っているぞ」

「へい、有難う存じやす」二人は、深々と頭を下げた。

 近衛家の家臣に戻るようにとの、必要以上な説得を又も丁重に断り、直吉と善兵衛は、住職の部屋を後にした。

 庭に出た二人の耳に、興禅寺の鐘の音が、ずしりと響く。空を赤く染めて、夕日が水平線に落ちる。時は、既に夕暮れであった。

興禅寺を出て、二人はお孝の働く小料理屋『木蓮』に向かった。貿易船が、数多く浮かんでいる。商家の屋根瓦が夕焼けに染まり、高台から見る坊の浦は、火に包まれた如くに、異国への夢を掻き発てていた。

 家路を急ぐ人の流れは、途切れることがない。繁華な通りに、三味線の音が聞こえ始めている。二人は、木蓮の暖簾を潜った。

「いらっしゃ〜あい」との女給の声に、手を上げて応える直吉である。

「直さん、助蔵さん達も来ているわよ」

「何、ワラジも・・・」

「二階の部屋だけど、行く?」

「一緒に飲もうか?」と、善兵衛を見る。善兵衛も、「勿論」と、言って頷いた。

女給に案内されて、二人は二階へと上がって行った。

「助蔵さん! 直さん達が来たわよ」

「直吉が? 通して」「はいよ」

女給は、正座をして障子を開けた。直吉と善兵衛は、部屋に入った。「よおっ助蔵、あっ、船頭も一緒でしたか」

「直吉、善兵衛も、どうしたい? 良く嗅ぎ付けたのお〜」と、船頭は、二人に微笑む。

「ささっ、こっちへ」「へい」と言って、二人は机の前に座った。

「お孝ちゃんも、一緒とは驚きじゃのお〜」との直吉に、お孝は、軽く笑っている。

「驚くことは、ねえよ、お孝ちゃんの店だもんなあ、いるのは当たり前じゃ」と、助蔵。

お孝は、助蔵の杯を直吉に手渡した。受け取った直吉は、お孝の持つ徳利に手を伸ばす。酒は、溢れるくらいに注がれ、一気に飲み干した。次に、善兵衛へと酒を注ぐお孝の項は、色っぽいと、見惚れる直吉である。

「今夜は、浮かぬ顔をしているのお〜 二人共どうしたんじゃ?」と、船頭の中村文左衛門は、直吉と善兵衛を気遣った。

「へい、実は・・・きょう興禅寺へ住職を尋ねたら、近衛の密偵達がいまして・・・」

「直吉、それは本当かい?」と、文左衛門。「へい」と、直吉と善兵衛は頷く。

「薩摩は、密偵狩りをやるらしいが・・・」 密偵狩りと聞いてお孝は、驚いた顔を見せた。「どきっ」と、心の臓が弾けて行きそうである。お孝は、数日後に控えている唐物税の襲撃が気になった。

「それで、どうしたんじゃ?」

「へい、近衛の家臣に戻れと」

「近衛の家臣に戻れだって?・・・・・」

「今更、戻れる訳はないでしょ、船頭」

「うっ、うん・・・そうじゃのお〜」

「あっしは、異国を見聞することこそ、天から与えられた任務のように、思えるのですよ。それが、合ってまさあ〜」善兵衛は、酒を飲み干して言った。

<この二人は、近衛の家臣だったとは。異人さんの姿を見かけたり、坊津と云う所は、なんと、不思議な町だこと>思いもしなかった事実に、驚きを隠しきれないお孝であった。

「戻れと言うのであれば、戻った方が、自分を生かせると思うがのお〜 まっ、わしには良う分からんが、生き方の違いかのお〜」文左衛門は、自分のことのように考え込んだ。

「異国には、才に秀でた方が多くいらっしゃいやす。色んな話ができ、友を持てることの喜びを、皆にも知って欲しいのでやすが」

 我先にと出世を争い、民のことなど、どうでも良い政には、剣の一撃を与えたいと、直吉は付け加えたかった。

「異国を回り、多くの人に逢うことの方が、重みのあることなの? それ程、自分に賭けられる事なの? 私には、良く解らないわ」お孝は、熱っぽい声で聞いた。自分とは、全く正反対である。自由に、背伸びすることもなく、のびのびと生きている。お孝は、直吉と善兵衛が羨ましく思えた。

「そうよ。意義あることなんよ。いつかは、この世とおさらばじゃよ? 楽しいことの全てを、この頭に叩き込んでおきたい・・・・・解る? お孝ちゃん」と、直吉は微笑む。

「失礼します」と言って、女給が、酒を持って部屋に入って来た。女給は、酒の肴と徳利を机の上に置く。

「皆、そんな顔をしていないで。ささっ、ここいらで、飲み直しと行こうか」文左衛門は、気まずい雰囲気を察して、明るく振る舞った。

 酒と酒の肴を机の上に置き終えた女給は、「お孝ちゃん、それじゃね」と言って、空になった徳利を手に、部屋から出て行った。

 一階の賑やかな声が、直吉の胸を刺す。淋しかった、とても淋しかった。

「ワラジ、三味線の音が聞きたいなあ〜 何か弾いてくれよ」と、直吉は酒を飲み干す。「三味線ねえ〜」と言って、助蔵は、部屋の片隅に無造作に置かれていた三味線を、取った。調弦する三味線が、泣いている。直吉と善兵衛には、とても悲しく心に響く。

調弦を終えた助蔵は、静かに三味線を弾きだした。その音は、直吉達の心を和ませる。弾けるような音は、時には楽しく、そして愉快に皆の心を、転げ落ちて行った。

酒場は、時の経つ毎に、賑やかさを増す。千鳥足で歩く男や、人目も構わず大声で叫ぶ者、そこいらに吐き散らす族が、大手を振って歩く。そこが、酒場であった。

 大野忠永は、治安を守る為に、いつものように歩いた。三味線の音が、聞こえている。忠永は、すれ違う人を避けながら歩いた。

「旦那、大野の旦那」との、声の方に振り向いた。荷役人夫であろうか? よれよれの服に、髭面の姿が、そこにあった。

「大野の旦那、ちょいと、耳寄りな話があるんですが・・・えへへへ」

「何、耳寄りとな?」「へい、さいでして」「どんな話を、聞かそうという訳じゃな?」「それは、ちょいと・・・ここでは・・・」忠永は、辺りを見回した。人の流れの中に唐吉楼の灯篭が見える。

「入るか?」と、顎をしゃくって唐吉楼を、指した。男は、「へい」と、頷く。

 唐吉楼の暖簾を潜った忠永は、空いている席を探した。お店は、混雑している。

お店の片隅に、空いている席がある。相席である。二人には気付かぬ女給に、構わず空いている席に腰掛けた。と同時に、相席の男達が席を立つ。

「有難う御座いました。又御出でな」

<拙者を知っていて、わざと席を立つとはのお〜 嫌われたもんじゃなあ〜>

「お〜い、酒をくれい!」との、忠永の不機嫌な声に、「は〜あい」と、女給は、愛想良く可愛い声で応える。

「ところで、男」「へい、銀兵衛と申しやすが」と、男は、擦り寄って来る。

「銀兵衛とやら、何じゃい、耳寄りとは?」「へい、えへへへ・・・」

「何だ、金か? 金が目当てか?」

「へい」と、銀兵衛は、にっこりと頷く。

「現金な奴じゃのお〜 それ程、金になる話かい? 始末におえぬのお〜」

女給のお里が、忠永の席に酒を運んで来た。忠永に会釈をしたお里は、酒をゆっくりと机の上に置いていく。

徳利を手にすると、忠永に酒を薦める。「うっ」と頷いて、忠永は杯持つ手を伸ばし、お里の酒を受ける。溢れんばかりに注がれた酒を、一気に飲み干す。

 次に、銀兵衛へとお酌をするお里である。お里は、にっこり微笑み、「御ゆっくりね」と言って、他の席へと歩いて行った。

忠永は、自分で酒を注ぎ、味わうようにゆっくりと飲む。話は、途切れていた。

 銀兵衛が、口火を切った。

「聞いた方が、良っ御座んすぜ、旦那」酒を飲み干して言った。

「性もない話だったら、ぶった斬るぞ。それでも良いんじゃな?」と、太刀に手をやる。「旦那、止しておくんなさいよ。物騒な」

「よし分かった、話してみろ、銀兵衛。聞いてから、値段はつけてやる」と、忠永は、太刀から手を離した。銀兵衛は、浮かぬ顔をしたが、「へい、五日程前に、琉球王国の船が入港したのを御存じでやんしょ?」

「ああ〜 知っている。昨日出帆して行ったが、それが何か?」

「へい、実は、船員さん達が、話しているのを、偶然耳にしたんでやんすがね、薩摩とは縁を切るらしいですねえ〜 旦那。和泉と手を組み、唐物などを運ぶ計略を経てているらしいですぜ。おまけに、密偵まで送り込んで来るとは、驚きじゃあ御座んせんか」

渡琉船を勘合する権限を、持っている薩摩である。薩摩を通して、琉球貿易が行なわれている。薩摩と縁を切るとは、薩摩を通さず貿易を行なうことを意味し、渡琉船を勘合する権限も怪しくなる。忠永は、<偉い事になる>と、溜め息をついた。

「それで密偵とは、琉球か?」「へい」

「密偵を送り込んで、一体どうする積もりじゃ? 手を切れば、それで済むではないか?それをわざわざ密偵を送り込むとは、我らを舐めているのか?」

「明国との貿易を、琉球王国は独占したく、先ずは薩摩を、潰す策略を巡らしているらしいですぜ、旦那。きっと、やりますぜ」

「何! 明国までも?」

薩摩も、細川を出し抜いて、明国との貿易を独占しようと画策している。冗談では済まされないと、忠永は、太刀に手をやり、銀兵衛を斬ろうとした。

「ままっ待って、おくんなせえ。旦那。あっしは、ただ聞いたことを話しているんですぜ。あっしのような者んが、明国との貿易を独占出来る訳がないでしょ、旦那。止しておくんなせえよ。おっかないなあ〜 全く」

「そうであったのお〜 それから?・・・」「へい、明国への貿易船は、琉球への停泊は一切許さず、通過することも禁止する手筈になっているらしいですぜ、旦那」

「うむ〜 南海路の制海権を、得ようと云う訳かい・・・成程のお〜」と、忠永は、感心した声を出した。南海路の制海権を、我が物にすることは、明国との貿易ひいては南方への貿易を、事実上琉球王国が、禁止することに等しい。<なかなか、やるのお〜 琉球王国も>「それから?・・・」

「へい、それだけで御座んすよ」

「左様か、事実であろうのお〜」

「間違い御座いませんぜ、旦那」

「分かった」と言って、忠永は、懐から金子を取り出して、無造作に机の上に、ほおり投げた。小判のぶつかる音がする。

「旦那、こ、こんなに、宜しいんで?」三枚の小判を手に広げた銀兵衛は、多過ぎると思った。ぺこぺこと頭を下げる。

「ああ〜 良いともよ」と言って、銀兵衛に酒を薦める。事実とすれば、琉球王国に対する策略の程が見えてくる。打つ手の無いまま、計略だけがひとり歩きをしていた琉球王国の乗っ取りに、何か明かりが見えたような気がする忠永であった。

<早速、お奉行にこの事を、伝えなければ> 忠永は、聞こえて来る三味線の音が、太鼓の鼓動のように、心打つかのように思える。落ち着いて、酒など飲めぬ忠永であった。

一夜明けた坊の浦は、相変わらずの賑やかさで、漁から帰った漁船の水揚げが行なわれている。勢い良く跳ねる魚は、小母さん達の手に因って、仕分けられて行く。食卓に上るであろう魚は、新鮮であった。

 朝食を済ませた忠永は、奉行所を訪れた。唐船奉行の本田清重郎を前に、昨夜、銀兵衛から聞いた、琉球王国の企みを話した。

琉球王国の策略は、予想できる事ではあったが、清重郎の驚きは、大変なものであった。少し考え込んでいたが、「如何したものかのお〜」と、庭先に目をやった。庭先には、琉球から持ち帰ったと云われるハイビスカスの花が鮮やかに、真っ赤な色を放っている。鴬の囀りに、耳を澄ませる清重郎であった。

「先ずは、城下の殿に報せねばならぬのお〜密書を送ると致そう」と、清重郎は、真剣な眼差しで、忠永を見て言った。

「はっ」と、軽く頷く忠永に、「文左衛門の船は、近々、出帆の予定であったのお〜」

「左様に御座いますが、何か?」

「密偵を琉球まで、送り届けてもらおう」

「密偵を? で御座いますか?」

「左様、今の話が、本当であるかどうか、確認せねばならぬしのお〜」「御尤も」

「先代の送り込んだ密偵は、全て斬られている。今度は、用心せねば・・・」

「して、いか程の密偵を送りましょうや?」「目立たぬ数が良かろう。三名ではどうじゃな、動き易いと思うが?」

「ははっ、承知致しました。文左衛門には、後日、伝えておきましょう」

「あい分かった」

 唐物税を、運ぶとされた朝を迎えた。

空には曇ひとつ無い、晴れた日であった。勘合船は、静かに浮かぶ。密偵達にとっては、雨の日の方が、襲い掛かるのには都合が良いのであろうが、浮かぶ勇姿は、不気味な姿に思える高島吉衛門であった。篠田弥之介は、いつになく落ち着かないでいる。偽の情報を、掴まされた二人は、太刀の手入れも終わり、襲撃の時を、待つだけであった。

薩摩藩邸では、庭先に置かれた荷車の荷台に、石ころの積まれた箱を運んでいる。荷車と荷馬車の周りには、太刀を腰に挿す白い鉢巻き姿が、忙しく動いていた。今度は、空の荷馬車の荷台には、人が乗り込み、その上から分らないようにと筵が被せられた。薩摩国御用金と書かれた看板が、目立っている。餌に食い付くようにと、わざと目立つように書かれてあった。

準備は整った。向井覚右衛門は、出発を待つ荷車と荷馬車の置かれている前に皆を集めた。最後の、打ち合せである。

「陸路を行く荷馬車は、なるだけ大袈裟に、目立つように進め。襲って来たら、荷台に隠れている者は、素早く降りて、戦うように。容赦なく、斬っても構わぬ」「ははっ!」

「桟橋へと運ぶ荷車は、警護を手薄に致す。拙者と忠永が付く。必ず襲って来る筈じゃから、決して斬ってはならぬ。峰打ちとして、生け捕りに致せ。良いな」「御意」

「よし、それでは、荷馬車の方から出発!」

荷馬車が、引かれて動き出した。五名の護衛は、荷馬車の後に付く。

藩邸の門を出た荷馬車は、ゆっくり泊浦へと向かった。泊浦から茅野への陸路である。きりりとした武士の姿が、人目を引く。加世田までは、八里程の長い道程であった。

時を少しずらして、荷車が門を出た。勘合船が停泊している坊の浦への道のりを、重そうに荷車を引く。石ころの積まれた荷車は、三人で引くには、殊の外重かった。

石畳を動く車の音が、人の流れを避けさせる。先行して出発した荷馬車と同じように、荷車も又、ゆっくりと密偵達を誘い込むように進んで行った。

松林の影で、高島吉衛門と篠田弥之介は、唐物税が積まれた荷車の来るのを、今かと待っていた。お孝の様子が気になって、吉衛門は、港を覗くように見た。何事もなく、漁船の近くで待機している。<よし、荷車が来たら、予定通りに、いきなり斬り掛かろう>吉衛門は、覚悟を決めた。

「見えるか? 弥之介」「いや、未だのようじゃ」待つ時は、長く感じられる。獲物を狙う鷹のように、じっと待った。

「吉衛門、来たぞ。近付いたら、一気に斬り掛かる。油断致すな」

「分かった」と言って、吉衛門は、近付いて来る荷車を、松の木陰から、そっと見た。

 だんだん近付いて来る。

二人は、ゆっくりと太刀を抜いて、松の木陰から、打ち込みの機会を待った。

「今だ!」と、吉衛門は叫ぶと、荷車の方に飛び出して行った。弥之介も、飛び出した。

覚右衛門の読みは、見事に当たった。いつ斬り込まれても良いようにと、皆は神経を尖らせていたのである。突然の斬り込みに皆は、とっさに身を躱した。油断をしていたなら、斬られていたであろう。

機先を躱された吉衛門と弥之介は、一瞬戸惑った。必ず一人は、斬ることが出来るであろうと思っていただけに、体を躱されて、一瞬怯んでしまった。油断しているであろうとの思いは、はかなくも崩れ去ってしまった。

向井覚右衛門は、太刀を抜くと、吉衛門の喉元に剣先をあて、正眼の構えとした。正眼の構えから、左足を一歩前に八相の構えとした。

吉衛門は、正眼の構えから一歩後退りをする。<何と、峰打ちとは。舐めた真似を> 峰打ちの構えに、怒りを覚える吉衛門である。

 大野忠永は、正眼に構える弥之介に対し、剣先を目頭に、同じ正眼の構えを取った。

荷車を引いていた家来達は、吉衛門と弥之介を取り巻くようにして、剣先を二人に向けている。覚右衛門と忠永に任せていた。

「密偵ども! 餌に食らい付いて来たか!その餌は、石ころじゃ」と、覚右衛門は、吉衛門に向かって言った。

思いもしなかった言葉に、吉衛門と弥之介の顔色が変わった。

「何! 罠であったか?」と、吉衛門。

「今頃、気付いても遅いわさ!」

密偵と云うことを、役人らは既に知っている。心乱された吉衛門と弥之介は、「くそっ〜」と、体を震わせた。

こうなったら捨身で行くしかない。吉衛門は、「やあっ!」と、覚右衛門を目掛けて斬り掛かって行った。それは、覚右衛門の思う壷であった。

覚右衛門は、斬り掛かる相手の太刀を、頭上で相討ちとすると、鎬を削るようにして相手の太刀を押し退けた後、素早く後へ下がった。覚右衛門の体が離れて、隙が出たと思った吉衛門は、面を打ち込んで行った。

覚右衛門は体を整え、打ち込んで来る相手を躱しながら、右足、左足、右足と進み、相手の右胴を打つ。

「うぐっ」と、悲鳴にも似た声を発して、吉衛門は、倒れ込んだ。

忠永は、正眼の構えから大きく振り上げて頭上から打ち込んで来る相手の太刀を、体を捻って躱した。体を躱された弥之介は、正眼の構えに整える。じりっ、じりっと、前に進み忠永は、相手の間合いを崩す。弥之介は、左に回るようにして、忠永の打ち込みを躱す。五分と五分に思われた。

次に忠永は、太刀を少し右斜めに下げて、剣先を相手の喉元から離して、打ち込みを誘った。誘いに乗った弥之介は、「とおっ!」と、頭上から斬り掛かって来た。

忠永は、相手の太刀を鎬で、左へと払い除けた。太刀を払われた弥之介は、後を忠永に見せる体制となった。透かさず忠永は、相手の右肩を後からばっさりと打ち込んだ。

「うわっ!」と言って、弥之介は、前に倒れ込んだ。

斬り合いを見守っていた家来達は、素早く倒れた吉衛門と弥之介を取り押さえて、縄を掛けた。身動きの取れなくなった吉衛門と弥之介は、「斬ってくれ!」と、叫ぶ。

「よし、連れて行け」

 覚右衛門は、顎をしゃくって合図をした。覚右衛門と忠永は、ゆっくりと太刀を鞘に収めた。あとは、お孝が残っている。

覚右衛門と忠永は、お孝の許へと急いだ。自決するのを、止めねばならぬ。

思った通りに、お孝は持っていた脇差を、抜いて喉を突こうとしている。二人は、お孝の所へ駆け寄った。

「お孝! 待て! 待たぬか・・・・・」

 お孝に近付いた忠永は、お孝の持っていた離すまいとする脇差を、奪いあった後、ひったくるようにして取った。

 お孝は、忠永を恨めしそうに見る。

「お孝、一緒に来てもらおうか?」覚右衛門は、お孝に優しく声を掛けた。

勘合船は、静かに浮かんでいる。勘合船から目を逸らして、「分かったわ」と、素直に応じるお孝であった。

 高島吉衛門、篠田弥之介、お孝達密偵は、薩摩藩邸へと、引ったてられて行った。

 藩邸では、直ぐに取り調べが始まった。

縄で縛られて、筵の上に座らされた密偵達三人は、口を割ろうとはしない。質問に対しては、知らぬ存ぜぬの一点張りであった。

 このままでは、埒が開かない。何か良い手立てはないものかと考えた覚右衛門は、文左衛門を思い出した。文左衛門なら、口を割らせられるかも知れぬ。味方に付けようとするなら、その方が良かろう。覚右衛門は、文左衛門を藩邸に呼ぶように言った。

どこの密偵かは、差程重要なことではない。「何故に、薩摩に入り込んだ? しかも、この坊津に?」と、覚右衛門は、もう一度尋ねたが、返事はない。

「うむ〜 良く飼い慣らされていると見えるのお〜 何処から参った?」

 三人は俯き、応えようとはしなかった。

「よし分かった、この三人を連れて行け」

「さあ立て!」と、逆らえば、容赦なく鞭が飛ぶのであるが、素直に応じる。三人は藩邸にある牢に、打ち込まれる事となった。

暫らくして、藩邸を訪れた文左衛門は、密偵達が打ち込まれている牢へと案内された。塞ぎ込んでいる様子に、文左衛門は、それが当然であろうと、頷き近付いた。

「お武家様」と言って、文左衛門は、吉衛門と弥之介に、ひとりずつ丁寧に頭を下げた。「私は、廻船問屋を営む、中村文左衛門と云う者に御座います。金現丸の船頭として、異国を航海致しております」

 文左衛門の紹介に、何の返事もなかった。文左衛門は、構わず続けた。

「お武家様達は、都から御出でと、お見受け致しました。都からと云えば、何方が差し向けた密偵かは、察しがつきます。私がこうやって、牢を訪れましたのには訳が御座います。お武家様達に、ひと働きして欲しいので御座います。お味方になっては、頂けないかと?その相談に、伺いまして御座います」

「何! 味方になれと?」黙っていた吉衛門が、口を開いた。

驚きを隠しきれない、様子である。

「はい、今薩摩は、お武家様達のようなお方を、必要としております。隣には、未だ若い娘さんも、捕らえられております。簡単に首を斬られても、平気なので御座いますか?」

「お孝だけは、何とかならんのか?」弥之介は、縋るように言った。

「それは、簡単なことで御座いますよ。お三人とも揃って、お味方になれば宜しいので御座います。向井覚右衛門様の配下に、どうかと考えております」

「役人になれと?」

思いもしなかった、文左衛門の誘いに、吉衛門は感動した。簡単に首を斬る世の中に、こんなお方が、居たとは・・・。文左衛門の誘いに乗った方が、良いかも知れぬと思う二人であった。

「もう誰も、何も、お聞き致すことはないでしょう。過去は過去として、胸の中に仕舞われておいて下されば、誰も咎める事はしないでしょう。私に、お任せ下さい」

「無罪放免と云うことかな?」と、吉衛門。

「左様で御座います。向井様も、承知致している事で御座いますよ」

「うむ〜」と、唸る吉衛門に、「良くお考え下さいまし。また明日にでも、お伺い致します」と、深く頭を下げた。

 牢にお伺いとは、変な話ではあるが、文左衛門は、微笑んでいた。

「お孝ちゃん、お聞きの通りだから」と、隣の牢を覗いた。お孝は、文左衛門に軽く会釈をする。それに応えて、会釈を返す文左衛門であった。お孝に、<心配要らない>と、微笑んで頷き、「それじゃね、お孝ちゃん」と言って、牢を後にした。

 文左衛門は、「失礼します」と言って、覚右衛門の待つ部屋に入った。

「文左衛門、どうであった?」

「はい、お味方になりますよ、きっと・・・まあ〜 いま少し、お待ち下さい」上座の覚右衛門の前に、正座をした文左衛門は、会釈を終えると、軽く頷く。

「その代わり、何方が放った密偵か? 何処から来たのか? 何故、薩摩に入り込んだのか? は、一切聞かぬと云うことに致そうでは御座いませぬか?」

「それは、構わぬが・・・文左衛門、何か奴らにはあるのか?」と、身を乗り出す。

「いえ、そうでは御座いませぬが・・・言えば、世の中が引っ繰り返ると云うことも、有り得る事で御座います」文左衛門は、意味ありげなことを言った。

「文左衛門、そなた、何を考えておる? 拙者には、良く解らんのお〜」

「いえ、そう云うことも有りはしないかと」文左衛門は、密偵達は、そのような立場に置かれているのではないだろうかと思っていた。それならば、何も聞かぬ方が良いと。

「しかしのお〜 信頼できるのか? 何も知らずして、味方に付けても良いものか?」覚右衛門は、文左衛門の言葉に首を傾げた。

「信頼に値する人物と見ましたが」

「左様か・・・そなたが、それ程までに買っているのであれば、下駄を預けるしかあるまいのお〜 あい分かった。そなたに任せる」覚右衛門は、異国に詳しい文左衛門の感に賭けてみようと思った。

「有難う存じます。あのお方達は、必ずや良い仕事をしてくれる筈で御座いますよ」

「うむん」と、覚右衛門は、期待を込めて文左衛門を見て言った。

夕暮れ時は、何時の間にかやって来る。

繁華な通りには、家路を急ぐ子供達の声が、行き交っている。何時もの風景が、そこにはあった。直吉、善兵衛、助蔵は、未だ暖簾の下がっていない唐吉楼の、女将お鶴に頼み込んで、お店を開けてもらっていた。お店の中は静かで、酒と酒の肴を運んで来たお里は、愛想良くお酌をしてくれる。

お孝が、向井覚右衛門に捕らえられたと云う噂は、直吉達の耳に入るのは、早かった。誰にも聞かれたくない話をするには、お客のいない唐吉楼は、都合が良かった。

「船頭が、薩摩藩邸に呼ばれたらしいぜ」善兵衛は、皆を見回して言った。

「何で、船頭が? 密偵だったんかよ、船頭は・・・まさかのお〜」と、助蔵。

「いや、船頭が呼ばれたのは、他に訳があるらしいぞ」と、直吉は、助蔵を見た。

「他にとは、何じゃい? 直吉」善兵衛は、酒を飲み干して言った。

「ねえねえ、何の話、しているの?」お里は直吉に酒を注ぎながら、話の意味が解らずに思わず口を出した。

「いや、何でもないよ、お里ちゃん」

「直さん、船頭さんが密偵とは、穏やかじゃないわね」と、横目を流す。

「お里ちゃん、とんでもない事を云うんじゃないよ。船頭はね、そんなんじゃないんよ」

「あら、そう、じゃあ教えてくれても良いんじゃなあい? ねっ、助蔵さん」と、酒を注ぐ。

「うっう〜ん 実は、おいら達にも良く分からんのよ。教えてあげたいけんど」助蔵は、注がれた酒を一気に飲み干した。「あら、そう」と、お里は、皆が頷いて助蔵に応えるのを見て、やっと納得する。「それじゃ暖簾を下げて来るわね」と言って、お里は出て行った。

「危ないのお〜 桑原桑原・・・何を勘違いしているのかのお〜 お里ちゃんは」直吉は、善兵衛に酒を注いで言った。

「とにかく、船頭の話を聞かぬと、良くわからんちゅうことかいのお〜」と、善兵衛。 

「明日にでも、仔細は、分かる筈じゃで、今夜はゆっくりと飲もうぜ」と、直吉は、助蔵にお酌をする。皆は、「うん」と、頷いた。

唐吉楼にはお客が、一人、二人と入って来る。居酒屋『唐吉楼』は、何時もの客足に、次第に賑やかさを増していった。

 一夜明けた薩摩藩邸は、雀の囀りが賑やかで、鴬の声を掻き消す。庭先に、射し込める陽射しが、暖かさを増していた。

 中村文左衛門は、朝食もそこそこに藩邸を訪れ、再度の説得に掛かった。

 密偵達は、他人ごとの為に、朝早くから牢に足を運ぶ文左衛門を見て驚いた。

「昨夜は、良く眠れましたかな?」文左衛門は、二人を覗くように見る。

牢の中は射し込める陽射しさえなく、ゴキブリが出て来そうである。薄暗かった。

「どうでしょう・・・決心は、おつきになりましたかな?」と、何も応えぬ密偵達に言った。密偵達は、不思議そうな顔をして、文左衛門を見ている。無理もない話である。本来なら、打ち首である。信じ難い話で、口を割らせる為の、策略だと疑っていた。

「何故に、我らを味方に付けたいのかな?」その答え如何では、味方についても良いと申し合わせていた。吉衛門は、文左衛門の様子を伺うようにして言った。

「それは、簡単で御座います。昨日も申した通りに、あなた様達のお力が必要なのです。今まで体験なさったことを、生かして頂き、薩摩に貢献して欲しいので御座いますよ」

「うむ〜 薩摩にのお〜」と、吉衛門。

「はい」と文左衛門は頷き、「勿体のお〜御座います。折角の腕が泣きますぞ」

「薩摩の為になると申すのか?」弥之介は、朝早くから、足を運んでくれた文左衛門に好感を抱いていた。

「左様に御座いますよ。薩摩は明国は勿論のこと、琉球ひいては南方へと開けた国に御座います。あなた様達のお力を、必要とするのは、当然で御座いましょう」

「うむ〜」と言って、二人は顔を見合わせると、互いに何か意味のある如く、軽く頷き合図をした。

「分かった。それ程までに申すなら、味方になろう」と、吉衛門は、やっと首を縦に振った。文左衛門は、笑顔で頷き、深く頭を下げると、「有難う存じます」と、喜びの声をあげた。<掛け替えのない命を救うことが出来た>文左衛門は、殊の外嬉しかった。早速、説得に成功したことを、向井覚右衛門に告げに行った。それを聞いた覚右衛門の喜びようはなかった。覚右衛門は密偵達三人を、部屋に呼んだ。

部屋に入った三人は、上座に座る覚右衛門に、深々と頭を下げると、一人ずつ自分を紹介していった。覚右衛門は頷いて、それに応えるだけであったが、「拙者は、向井覚右衛門と申す」と、紹介する。

「名前は、今聞いたが、新しく名前を授けようではないか。新しく生まれ変わるそなた達にとっては、その方が都合が良いであろう。高島吉衛門とやらは、岩田信之介、篠田弥之介は、山下伝太郎、お孝は、お京と名乗るが良い。そなた達は、我らの同志じゃ。何処へ行こうとも構わぬが、一言、連絡してくれよ。住む所は、こちらで準備する故に安心致すが良い」

「都へ行っても良いと?」狐に摘まれたような吉衛門である。

「勝手は許さぬが、そう云う事じゃ」

「それ程までに・・・我らを・・・」

 <敵であり、薩摩の沈没を目論んでいた我らを、信頼してくれるとは・・・> 頭の下がる弥之介であった。

「今後は、薩摩武士として、恥ずかしくなきように、心して振る舞ってくれ」

「ははっ」と、三人は、深く頭を下げた。

「文左衛門、聞いての通りじゃ。これで良いのであろう?」

「結構で御座います。向井様の御期待に応えて下さるでしょう。良かった、本当に宜しゅう御座いました」と、文左衛門は、嬉しさを隠し切れなかった。

「私、今まで通り、木蓮で働いても良いかしら」と、覚右衛門に微笑む。

「それは構わぬが、名前は、お京が本名だと名乗るが良い。刺客が、放たれるやも知れぬのでのお〜 そんなことは、ないとは思うが」

「連絡を断てば、恐らく斬られたと思うでしょう」と、吉衛門いや岩田信之介は、小さく笑った。文左衛門も、可笑しかった。

「お京、必要な時は、呼び出しをかける故。それまでは、のんびりと客の相手でも致しておくが良い」「はい、分かりました」

密偵達の説得に成功した文左衛門は、すがすがしい気分であった。藩邸を出た文左衛門は、海岸通りを歩いた。貿易船が、ゆっくりと帰帆して来る。その勇姿に、近付く竺土への出帆を、思いながら歩いた。

小料理屋『木蓮』の、夜は遅かった。朝から、お孝の事が気になっていた直吉、善兵衛、助蔵達は、金現丸の見張りの当直を済ませると、木蓮の暖簾が掛かるのを、今か今かと辛抱強く待った。船頭の文左衛門も、木蓮の暖簾を、潜るのではないだろうか? との読みであった。文左衛門の許を訪れて、あっさりと尋ねれば事は足りるのであろうが、<女のことなど聞けねえ>と、海の男の意地だと、息巻いていた。<何とも、情けねえ話ある>と、直吉達も思っている。

優しくも、頑固な船乗り達であった。

「いらっしゃあ〜い」

 直吉達は、明るい女給の声に迎えられて、暖簾を潜った。お客は、まだ誰もいない。一番乗りであった。

二階の畳の部屋を、指定した直吉達は、女給に案内されて、二階へと上がって行った。

 部屋に通され、机の前に座った直吉は、それとなく女給に聞いてみた。

「お孝ちゃんは、いないようだけど?」

「お孝ちゃん? ええ、昨日はお休みだったけどね」「今夜は?」

「ええ、厨房で、料理を作っているわよ」

「来ているのかい?」「ええ〜っ」直吉は、驚いた声をあげた。

<良かった、心配する事でもなかったかのか>

「呼んで来るわね。それじゃ」と言うと、女給は、障子を閉めると部屋から出て行った。

「何も、なかったんかいのお〜」と、助蔵。「何かあったんなら、今頃、手料理なんか作っちゃあ、おらんわなあ〜 おかしいのお」 善兵衛は、不思議そうに、考え込んだ。「そうようのお〜」と、助蔵も考え込む。

「とにかく、船頭が来るのを待つとしよう」 直吉は、船頭が木蓮へ来てくれることを願って言った。皆は、直吉に頷いて応える。

 暫らくして、「失礼します」と、女給が声を掛けて、ゆっくりと障子を開ける。お孝も一緒であった。

 正座をするお孝は、手料理と酒を、畳に置いて、改めて「いらっしゃい」と、頭を下げた。

手料理と酒が、机に置かれていく。直吉達は、そんなお孝の仕草を、さり気なく目で追っていた。白い項が、色気を放っている。<綺麗だ>と、皆は、溜め息をつく。皆には、光り輝いて見えていた。

「どうしたの? 皆さん・・・溜め息なんかついてさ・・・可笑しいわね」お孝は、皆の顔を覗くように見た。

 手料理を置き終えた他の女給は、「私、お呼びじゃないようね。それじゃあ〜 お孝ちゃん、後は、宜しくね」と言って、皆に会釈をすると、部屋から出て行った。

「ささっ、一献」と言って、お孝は、直吉から善兵衛、助蔵へと徳利持つ手を伸ばして、お酌をする。杯に、溢れるくらいに注がれた酒を、皆はお孝を横目に一気に飲み干した。

「お孝ちゃんも、どうだい? ひとつ」直吉は徳利を、お孝の前に差し出す。

「じゃあ〜 頂こうかしら」と言って、右の袖を左手で支え、杯持つ手を伸ばした。白く細い手が、やけに色っぽい。お孝も又、注がれた酒を一気に飲み干し、「ふ〜」と、息を吐く。美味かった。とても美味い酒であった。同じ薩摩の人間になれて良かった。嬉しくて、笑顔の溢れるお孝であった。

 お孝は、皆にお酌をしていった。静かに、酒を飲み交わす直吉達であった。

「直さん、船頭さんが、お見えだけど、一緒で良い?」と、女給が、聞きに来た。恐らく一階は、座る所がないのであろう。賑やかな声が聞こえている。思った通り、船頭が木蓮に飲みに来てくれた。直吉は微笑んで、「良いよ、一緒に飲もうと言ってくんない」「分かったわ」と言って、船頭に伝えに行った女給は、「失礼します」と、直ぐに案内して、部屋に入って来た。

「よお〜 皆も来ていたんかい?」

 船頭文左衛門は、船長と一緒であった。

「ささっ、船頭、おひとつ」と、直吉が、隣に座った船頭に、酒を薦める。船長は、善兵衛の酒を受けている。二人は、美味そうに、ゆっくりと飲み干した。

飲む酒は、文左衛門の喉下を過ぎていく。美味かった。難題を解決した後の酒は、実に美味い酒であった。

 手料理に酒が、運ばれて来る。机に置き終えて、女給達は、皆にお酌をする。

お酌を皆に終えて、「それじゃあ、御ゆっくりね」と、微笑んで、二人の女給は、お孝をひとり残して、部屋から出て行った。

 直吉は、頃合を見て、船頭に聞いた。

「船頭、藩邸に呼ばれなさったのは、何だったんですかい?」

「ああ〜 そのことか? 琉球まで、藩士を三名ほど、送ってくれとの事じゃった」

「それだけですかい?」

「そうじゃ。船長、そう云う事じゃから、宜しく頼むぞ」と、文左衛門は、酒を飲む。

「分かりました」と、船長。

「ああ、そうそう、お孝ちゃん。お孝ちゃんは、薩摩の役人じゃったんだってなあ〜」

「ええっ!」と、文左衛門の言葉に、直吉達は驚いた。一瞬、時が止まったように、皆は身動きさえ出来なかった。

「本名は、お京と云うらしいねえ〜」

「ええっ!」と、またまた驚いた。

 その驚きに、お孝、いや、お京は、可笑しくて、くすっと笑った。

その様子に、文左衛門は、腹を抱えて笑う。<役人に捕らえられたと云う噂は、間違いであったのか・・・捕らえられたと聞いていた本人が、その役人であったとは> 直吉達の驚いた顔は、止むことがなかった。目を丸めて呆気にとられている姿に、お京は又笑っていた。

 船長初め直吉達は、恐縮して酒を飲んだ。何とも、可笑しな宴席となっていた。

文左衛門は、そんな皆を余所に、お京のお酌を楽しく受けていた。文左衛門の飲む酒も、お京と同じくらいに、美味い酒であった。

 

       四

波間に漂う貿易船の姿は、見慣れた住民にとっては珍しくなかった。廻船問屋や貿易商達からせしめた唐物税を、無事に積み込んだ貿易船福龍丸が、鹿児島の御城下へ向けて出帆してから、八日目の朝を迎えていた。

 中村文左衛門は、直吉と助蔵を伴に、海岸通りを桟橋へと向かって歩いた。行き交う人は疎らで、潮騒が静けさを増している。満ち潮であった。

 前から歩いて来る娘は、知っている顔である。女中を伴に歩く武士の娘は、背筋を延ばし、引き締まって見える。

「お菊様、何処へお出かけで?」

 文左衛門は、立ち止まり声を掛けた。唐船奉行本田清重郎の娘、お菊である。

「文左衛門様」と、軽く会釈をする。「お鈴さん所へ、仕立物を、お願いしに行った帰りですのよ」

「そうで御座いましたか・・・お菊様も、そろそろですからねえ〜」

「何がそろそろなのです?」

「いや、こっちの話で」

「お船まで行かれるの? 直吉さん、助蔵さんも御一緒に?」と、二人を見る。

「へい、さいでして・・・」と、直吉は、頭を下げた。助蔵も、軽く頭を下げる。

「そう、遠い竺土へ行かれるので、御座いましょう? 行ってみたいわね」

「一緒に行きますか? お菊様」と、助蔵。「そうね、お父上に怒られるわね、きっと」「そうか、お父上か・・・」と、直吉は、浮かぶ貿易船に目をやった。見たこともない異国は、お菊には、夢の国のように思えるのであろう。行ってみたいと思う気持ちは、かつて自分が、異国に憧れた気持ちと同じであろうと、船出する貿易船の姿を、思い浮べた。

「文左衛門様、これで、失礼します」と、お菊は、頭を下げた。伴の女中も丁寧に頭を下げる。文左衛門達は、二人に応えて、丁重な挨拶をすると、深く頭を下げた。

「船頭、良いですねえ〜 あの、きりりとした後ろ姿、百合の花のように淑やかで」

 直吉は、お菊達の後ろ姿を、見送り乍ら言った。助蔵も、溜め息をつき見送っている。「あのようなお方は、そうざらには、いらっしゃるまいのお〜」と、文左衛門も、お菊の姿に見惚れて、溜め息をつく。

「さっ、行くぞ」「へい」

 桟橋に着いた文左衛門達は、通船に飛び乗って、金現丸へと向かった。

 海は穏やかで、凪いでいる。櫓を漕ぐ軋む音が、港に響いていた。

 通船は、金現丸に、横付けになった。

見張りの乗組員が、大きく横に手を振った。直吉がそれに応えて、手を振る。上甲板から縄梯子が投げられ、文左衛門達は、一人ずつよじ登って行った。

 上甲板に着いた文左衛門は、「それじゃ」と、伴の直吉と助蔵に言って船長室へ、直吉達は所定の作業場へと、別れて入って行った。

荷役人夫達の乗り込んだ小船が五隻、ゆっくりと近付いて来る。上甲板から投げられた縄梯子を、横付けした船からよじ登って、人夫達は金現丸に乗り込む。荷役人夫の頭領が人夫達に指図をして、荷役作業の準備に取り掛かった。小船が左舷に横付けされて、食料と水の積込みが開始される。更に硫黄、銅、太刀や長刀、槍などの武器の類を積み込んだ船が、右舷に横付けして、荷役作業が開始された。

乗組員達は、荷役作業に立ち合い、人夫達は忙しく動き回っている。

「船長、荷役作業が終わり次第、直ぐにでも出帆したいのだが、存じているように、薩摩藩士達を三名、乗船させねばならない」

「お奉行の方からは何も連絡は、ないので御座いますか?」と、船長は、文左衛門を見た。文左衛門は、「そうだ」と、頷く。

「琉球王国へ送り込むとなれば、密偵で御座いましょう? 直ぐに見破られてしまいますよ。言葉の違いもあるし、易々と、斬られに行くようなものでしょう? お奉行は、分かっているのでしょうか?」

「分かっている筈じゃよ。訓練された者が、選ばれるらしいが・・・・・」

「怪しいもんですよ・・・失敗しそうな気がしますが・・・」と、船長。

 荷役作業の音であろうか? 何かが舷側にぶつかる音が、部屋まで聞こえて来る。何もなく、順調良く行なわれているのであろうかな? と、送り込まれるであろう密偵達のことが、気になる文左衛門である。

「失敗するのであれば、琉球へは、上陸させたくはないのお〜 何とか、ならんのか? 船長」と、文左衛門には珍しく、失敗するのを前提にした話をする。以前、行方知らずの密偵達の話を、聞いた事があった。

「薩摩武士の誇りと与えられた命を、忠実に守ろうとするでしょう? でしたら、止めさせるのは、無理な話では御座いませんか?」

「失われていこうとする生命を、ただ黙って見ていろと言うのか? 船長」

「船頭、未だ失敗するとは、決まっていないではないですか? 今から、弱気になっていたんじゃあ〜 救われませんよ・・・」

「そうじゃのお〜 信じるしかないのか? それとも、祈るしかないのか?」文左衛門は、深い溜め息をついた。

「密偵を琉球王国へ送り込もうとするには、何か勝算があるのでしょう。成功を信じて、彼らの無事を祈るしかないでしょう?」

「そうじゃのお〜」

 唐船奉行達は、勝算ありと読んでいるのであろう。人夫達の声と荷役作業の賑やかな音が、文左衛門には、切なく聞こえていた。

その頃、文左衛門達の心配を余所に、唐船奉行は、琉球王国へ密偵として派遣する、剣は勿論のこと文才に優れた者達を、奉行所に呼んでいた。いわゆる、切れ者達である。

「近々、金現丸が、琉球王国へ向けて出帆する予定であるので、いつでも乗船できるように準備しておいてくれ」

「御意!」と、三人は、深く頭を下げた。

「殿も、そなた達の働きを、期待しているとの密書を、先日もらった。宮下幸蔵、久保宗八、長谷十郎、選ばれた者であると云うことを心に、存分に働いてくれ」「御意!」と、また深く頭を下げた。

「心得ていると思うが、偽名を使って入り込むように。繋ぎは、立ち寄る貿易船に託す」「ははっ」

「次ぎなる交替の日まで、薩摩とは無縁じゃぞ・・・辛いじゃろうが・・・」「御意!」

三人は、出帆準備に取り掛かるべき、奉行所の門を出た。久保宗八の心は、空白であった。足取りは重く、待ち合わせの場所へと急いだ。その神社は、直ぐだった。

 宗八に気付いたお菊は、笑顔で迎える。

「お菊殿、待たせたのお〜」神社の片隅で宗八を、じっと待っていたお菊に近付いて、声を掛けた。お菊は笑顔で、「いいえ」と、首を横に振る。

「難しいお顔をなさって、どうなさったの?何か御座いましたの?」

「いや、大したことは御座らん」

大したことであった。宗八は、琉球王国への出帆を、言い出せないでいた。目の前に迫るその日を前に、<言わねば>と、焦っていた。

「可笑しな方・・・」と、お菊は、微笑む。その笑顔が、宗八には耐えられない。胸の痛む思いであった。

「金現丸は、近々、竺土へ向けて出帆のようじゃが・・・」

「ええ〜 今朝、文左衛門様に、お遇いしましたのよ。一緒に、竺土まで行かないかですってよ・・・行ってみたいわね」

「お菊殿」と、宗八は、振り向いた。

「なあ〜に」と、お菊も宗八に振り向く。

「実は、その・・・琉球王国へ・・・金現丸で」 不思議な顔を見せるお菊に、宗八は、言葉に詰まりながら、やっとの思いで言った。

「ええっ! 琉球王国へへ? 行かれるので御座いますか? 何故で御座いますか?」

「殿の命にて、琉球王国の現状を、調べに行くので御座います。選ばれた三名の中に、拙者も入っていたのです・・・・・」

「そうでしたの・・・いつまで、行かれるので御座いますか?」

「それは、未だ何とも言えませぬが・・・」「そう〜 寂しくなりますわね」

お菊は、驚きと淋しさで、目の前が真っ暗になっていた。<お父上は、何故、報せて下さらなかったのかしら・・・何か、お考えがあってのことね、きっと・・・>

「怒らないのですか?」冷静に見えるお菊に、宗八の方が、驚きを隠しきれないでいた。

「怒ったところで、どうなります? 殿の御命令でしょう? 悲しいけれど、耐えて待つしか御座いませんこと?」

<うむ〜 薩摩おご女は、強いのお〜 会えなくなると思うと、拙者は、壊れて行きそうなのに・・・>

「先先代から今まで、派遣された者達の全ては、今だに行方知れずとなっております。薩摩の貿易船なども、度々立ち寄ってはいるのですが、どう致しているのやら・・・薩摩では、把握できないでおります。明日をも判らぬ身なれば、お菊殿、拙者のことは、どうかお忘れになって下さい。その方が、お互いの為になりまする」

「そんな、悲しいことを、仰らないで下さいまし。お菊は、いつまでも、お帰りをお待ち致しております」真剣な眼差しで、お菊を見詰めて話す宗八に、お菊は、優しく静かな声で言った。

「はあ〜 しかし、拙者は・・・・・」宗八は、言葉に詰まった。

「解っております。今度のお仕事に、賭けていらっしゃるのね?」

「はあ〜 琉球王国や明国との貿易が、出来なくなるやも知れぬ事態を、是非とも避けたいとの派遣なので御座いますよ」

「そう・・・そんなに、悪くなると?」

「ほっとけば・・・恐らく・・・」

「お菊のことは、心配なさらないで、お仕事を存分になさって下さいまし」

「済まない・・・お菊殿」と、頭を下げた宗八に、「良いのよ」と、軽く頷いた。

「お菊殿、拙者は、準備に取り掛からねばなりませぬ。これにて、失礼致す」「分かりました」

また深く頭を下げた宗八の後ろ姿を見送るお菊であった。

神社の影に隠れて、お菊達のやりとりを、見守っていた女中は、心配そうな声で、「お菊様、大変なことになりましたねえ〜」

「あら、聞こえていたの?」と、お菊の許へと、小走りに近付いた女給に言った。

「琉球王国へ行かれることになるとは・・・不運としか、申しようも御座いませぬ」

「お香にも、お船に乗っている好い人が、確か・・・いたわよね?」

「はい、私は、まだ良いですよ。いつかは帰って来ますから・・・いつ帰るか分からぬ事になるなんて、そんなあ〜 あんまりです」お香は、涙を目に一杯溜めて、今にも泣きだしそうである。

「仕方がないのよ・・・殿の御命令とあれば何処へだって行かなきゃならないの」

「あたし、絶対いや、殿様の御命令でも、いやだわ・・・お菊様が、可哀相・・・」

二人は、神社を後に、浮かぶ貿易船の見える海岸通りへと出た。並ぶ貿易船の中に、宗八が乗船する金現丸を、探すお菊であった。

金現丸は、荷役の真っ最中である。忙しく動き回る荷役人夫達の姿が、お菊達にも見えていた。

「船長、荷役は大分捗っているようじゃが。予定通り終わりそうかのお?」

 船長室を訪れた文左衛門は、机の前に座っている船長に尋ねた。船長は、「大丈夫で御座いましょう」と、振り向く。

荷役作業は、興禅寺の夕暮れを報せる鐘の音も知らず、滞り無く順調に進んで行った。

「六助、一杯行くか?」と、荷役当直を終えた善兵衛が、誘いをかける。

「良いのお〜 行くか?」と、六助。

 荷役作業を終えた人夫達も、迎えの船に乗り込んでいる。酒の香りが、頭を過る善兵衛と六助であった。

船頭中村文左衛門、船長折田作兵衛は、善兵衛達に酒を誘われて、迎えに来た通船に乗船した。通船は、櫓を漕ぐ音を軋ませて、ゆっくりと進んで行く。桟橋までは、それ程の時間は掛からずに、直ぐに着いた。

上陸した文左衛門達は、「いらっしゃあ〜い」との、明るい女給の声に迎えられて、居酒屋『唐吉楼』の暖簾を潜った。お客の数は、未だ少なく。彼らは兼ねてからの席についた。指定席である。お酒が運ばれて来たのは、いつもより早かった。笑顔で挨拶をしたお里は、徳利と酒の肴を机の上に置いていく。置き終えたお里は、手慣れた様子で、文左衛門に酒を薦めた。杯持つ手を伸ばした文左衛門は、お里を下から覗くようにして軽く頷き、笑顔を見せる。注がれた酒を、一気に飲み干し、「ふ〜っ」と、満足した声を発した。美味かった。荷役作業の気疲れを、酒は癒してくれる。美味い酒である。

お里は、次に船長へ徳利を差し出し、ゆっくりと酒を注ぐ。注ぎ終えて、善兵衛、六助へと酒を注いでいった。次第にお客の入りが、激しくなって来る。お里は、「それじゃあ、御ゆっくりね」と言って、別の席へと去って行った。

「船頭、あっしらの仕事は、夢はあるけんども、愛がねえですねえ〜 愛が」と、六助。出帆が近付くにつれて、淋しさが込み上げる善兵衛と六助である。いつ、帰帆出来るとも分からぬ船乗り達の世界である。坊津の風景は、眺める度に二人の胸を刺す。やっとのことで見付けた愛は、遠く離れて暮らす彼らには、直ぐに泡の如く消えてしまう。今度も、恐らくそうであると、二人は、苦笑いをするのであった。

「六助、夢があるだけで、良いではないか?逢う度に、別れる愛を繰り返す。男として、大きくなれるであろう? 竺土の女が、お待ちかねじゃないのかい?」

「船頭、竺土なんぞに、女なんていやしないですぜ」と、酒を飲み干す。

「何だ、情けないのお〜 それで、愛がないと、うじうじ言っておるのか? 見送りに来るくらいの、愛を見つけてみろ」「へい」と、六助は、頭を掻く。

「なんだ、お前ら、しっかりせんかい。うじうと、愚痴ってばかりいて」船長は、二人に喝を入れる。独り身の善兵衛も、恐縮しきって酒を飲む。

「まあ、良いではないか。その内、のお〜好い娘でも、連れて来るであろう」文左衛門は、船長に酒を薦めた。

「いらっしゃあ〜い」と、女給は、入って来るお客を、明るく迎える。

文左衛門は話に夢中になり、入って来た直吉と助蔵には、気が付かないでいる。そっと近付き、「船頭、ここでしたか・・・」と、声をかけて来た直吉に、皆は振り向いた。

「おお〜 直吉か、助蔵も・・・さあ、ここへ座って飲め。遠慮するな」

「へい」と言って、二人は空いている席に腰掛けた。直ぐに女給が、酒を運んで来る。机の上に置き終わると、徳利を一本だけ手にした女給は、直吉にお酌をする。杯持つ手を伸ばして、酒を受ける助蔵も、女給の酒を受けて、一気に飲み干した。

「もういいぞ」と、文左衛門は女給に頷いて合図をした。女給は文左衛門の何時もと違う合図に、何か話があると察した様子で、「それじゃ、これで」と言って、お里が手料理を作っている厨房の方へと歩いて行った。

「船頭、聞きやしたか?」と、助蔵。

「何じゃ? 助蔵」

「薩摩が、金現丸で藩士達を琉球へ送り込むのは、琉球を乗っ取ることらしいですぜ」

「大凡の見当は、ついておる。・・・密偵であろうが。何も、そんなに驚く事でもない」と、文左衛門は至って冷静である。

未だ何か言いたそうな助蔵は、「さいですか?」と、文左衛門に酒を注ぐ。「未だ、何かあるのか? 助蔵」

「へい、実は、その乗取には、どうも裏があるようですぜ」

「何っ? 裏じゃと?」

「へい、乗っ取ったと見せ掛けて、細川を明国の貿易から手を引かせる策だと、言っているのを聞きましたぜ」

「誰から聞いたのじゃ?」

「へい、料亭山桜で向井様達が話しているのを、こっそりと耳にしましてね」

「それじゃあ〜 今度送られる密偵達は、どうなるのじゃ? 問題なく、無事に帰れると云う訳かい?」

「それがねえ〜 船頭。捨て石にされるのではないかとの、御心配でした」

「捨て石にのお〜 しかし、琉球船は、頻繁に薩摩に来ているぞ。乗組員達から詳しい話を聞けば、誰もが、直ぐに間違いじゃと、気が付くであろうが?」

「へい、そうなんですがね・・・・・おいらにも、そこんとこが、よう解らんのですよ・・・へい・・・何でも、琉球と薩摩は、手を結ぶのではないかとも」

「向井様が、仰っていたのか?」「へい」

「可笑しな話よのお〜 それなら、密偵なんぞ、送り込む必要もないじゃろうが・・・・・捨て石にのお〜」と、首を捻る。

「船頭、可笑しな話ですねえ〜 それが本当なら、何かありますねえ〜」と、船長。

「琉球王国は、薩摩を潰すのではなかったのか?何れにしても、係わり合うなよ。斬られぬとも限らんでのお〜 助蔵、これ以上首を突っ込むでないぞ」と、文左衛門は、脅しをかけた。「へい」と、助蔵は、頷く。

「ワラジ、何にでも、首を突っ込むのはお前の悪い癖じゃ。ばっさりと、斬らぬように、よ〜うと、気をつけろや」と、直吉は、助蔵に酒を注ぎながら言った。

「分かってるわい」と、助蔵は、注がれた酒を一気に飲み干した。

「細川を、遣明船から手を引かせる策をも、薩摩は考えていたとは、気がつかなんだのお〜」

唐船奉行の本田清重郎は、娘のお菊を前に食後のお茶を啜っていた。ただ黙って座っているお菊に、<いつもは、はしゃぐお菊なのに>と、妻のお春は、不思議に思った。

 清重郎は首を捻り、腕組みをすると、「ふ〜っ」と、溜め息をついた。

 <お父上ったら、何時話して下さるのかしら? 溜め息なんかついて、何か仔細がおありなのかしら?> お菊は、落ち着きのない清重郎の様子に、薩摩にとって何か重大なことが隠されているように思った。横に座るお春も、清重郎やお菊の様子に、いつもと違う何かを感じ取っていた。

<何も聞かぬ方が、良いわね>お菊は、知らぬ振りをしていようと思った。

「お菊、実は・・・」と、清重郎は、お菊を見た。お菊は、「なあに」と、顔を向ける。

「実はのお〜 琉球王国へ、藩士達三名を派遣することになった。その中に、久保宗八も入っておる。剣に優れ、切れ者であったが故の、殿、直々の人選であった。我が薩摩にとって、琉球貿易や明国等との貿易は、死活を意味する。知っての通り、今まで派遣された者達は、今だに行方知れず。だが、派遣しない訳にいかないのじゃ。早くて、三年で職務は終わるであろうが・・・一切を口外してはならないとの命が出ておる。名前を変え、藩との縁を切って、乗り込むには何かあると、思って差し支えない」

清重郎は、黙って聞いているお菊に、淡々とした口調で話した。横で聞くお春には初耳である。驚いた様子を示している。お菊とお付き合いをしている宗八が、まさか琉球王国へ派遣されることになろうとは。何とか、中止できないものかと、おろおろと、するばかりであった。

「きょう、宗八様からお聞き致しました。殿の御命令とあらば、目を瞑るしかないのでしょう? お菊は、分かっておりまする。御心配なさらないで下さい」

「解っているのであれば、何も言うことはない。ただ、悔いの無きように致せ」

<お菊は、不憫な娘じゃ。好いた男とは、一緒になれない。いくら殿の御命令とは云えじっと耐えている>お菊の眼差しに触れた清重郎は、目頭の熱くなる思いであった。

「宗八様は、一切を忘れてくれるようにと、仰いましたが、お菊は、お待ちしとう存じます。必ず、お帰りになると信じております」お菊は、訴えるように言った。

「そなたが、それ程までに言うのであれば、待つが良い。しかし、長く辛い日々に、耐えられるか? お菊」

「はい、きっと・・・」

 お菊は、覚悟を決めていた。如何なる事になろうとも、耐えて待とうと・・・

「左様か、もう何も申さぬ。のお〜 お春、聞いての通りじゃ・・・」と、お春を見た。

「出来れば他の方に替わってもらえたらと、思いましたが、武士の娘らしい、お菊の覚悟に、心打たれました。決心は、変わらぬようですね?・・・」と、お菊に振り向く。

「はい、母上」と、お菊はお春を見て、頷いた。

 清重郎も、二人に頷いている。父と娘、母と娘の心の通い合いが、心落ちていきそうなお菊の淋しさを消していた。

 次の朝は、雲が港を覆い被さり、雲間から射し込める日の陽射しを、金現丸は受けていた。黒い雲の影が、波間に浮かぶ。

金現丸に乗船した荷役人夫達は、早速、荷役作業に取り掛かっていた。

「雨が降らねば良いがのお〜」当直にあたっている航海士の源四郎は、空を見上げて言った。近くにいた乗組員の豊蔵も、「さいですねえ〜 ひと雨降りそうな感じですねえ〜」と、空を見上げて、源四郎に応える。船橋に立つ二人は、荷役作業の進み具合が気になっていた。

「きょうで終わらせたいのじゃが・・・」

「大丈夫でやんしょ・・・今度の人夫達は、良く働く。坊の浦と泊浦の人夫達を、束ねている頭領の許で働く子分達ゃあ〜 矢張り、良う出来ていますわい」と、感心する乗組員に、「良い頭領の下には、良い子分が付くと言うではないか・・・」「へい、全くで・・・」

「大丈夫だと思うが」と言って、源四郎は、今後の荷役作業が予定通りにおこなえるものか、頭領との打ち合せの為に、上甲板へと下りて行った。

「頭領、雨が降りそうだが・・・作業は、どうか? 終わりそうか?」と、顎を空にしゃくり、頭領の茂蔵に様子を聞いた。

「へい、雨さえ、降らにゃあ〜 間違い御座んせんがね・・・」

「雨、次第かい?」「へい、雨に聞いて、おくんなせえまし」

「うむ〜」と、恨めしそうに空を見上げた。

「出帆は、急ぐんで御座んすかい?」

「いや、そうではないがのお〜 早く終わらせたいもんでな」

「分かりやした。何とか、急いでやってみましょ・・・雨は、降らねえと思いやすんで」

「頼んだぞ」「へい」と、頭領の茂蔵は、航海士の源四郎に頷いた。荷役作業は、賑やかな音を港に響かせ、急ピッチで行なわれていった。

 昼前であった。お菊は、久保宗八に会う為に、海岸通りを茶店に向かって歩いた。

伴のお香は、一歩後をついて来る。二人の足取りは、重そうに見えた。

海岸の繁華な通りの並びに、茶店『鯉屋』はある。先代の旦那さんが、お店に団子を食べに足を運んでくれるようにと、<来いや、来いや>に引っ掛けてつけた名前である。

二人は、暖簾を潜りお店の中へと入った。お菊は、お店の中に宗八の姿を探したが、未だ来ていないようである。目立たぬ片隅の、空いている席に腰掛けて、宗八を待った。女中のお香は、隣の席に腰掛けて、注文を聞きに来た女給に、団子を注文する。その注文を聞いていたお菊は、お香に軽く頷き合図をした。お香は、「お隣にも、同じ物を」と言って、お菊の注文を言ってあげる。

「はい、お待ち下さい」と言って、注文を聞いた女給は、厨房へと歩いて行った。

「しんこ団子ね、二皿!」と、大きな声で注文を告げる女給である。

暫らくして、団子が運ばれて、二人の机の上に置かれた。お茶を注す女給は、襷掛けである。その姿に、<鉢巻きをすれば、長刀のお稽古ね>と、近くの道場へ通っていた時のことを思い出した。武士の娘の嗜みにと、長刀片手に宗八と、良く立ち合ったものであった。が・・一度も負かしたことが無かった。宗八とは、その道場で知り合い、恋仲になっていた。古い付き合いである。しんこ団子を頬張るお菊は、始めて遇った時のことを思い出していた。

<目の合った宗八様は、恥じらいを見せていたわね。あの時もそうだった、二人でお団子屋の暖簾を潜り、お腹一杯になるまで食べたわね・・・もう会えなくなるなんて・・・>

「いらっしゃあ〜い」と、愛想良く、お客を迎える女給の声に、我に戻ったお菊は、入って来たお客に目をやった。宗八であった。

 お菊の姿を見付けた宗八は、微笑みながら近付いて来た。お菊も微笑んで迎える。

「待たせたようですね?」と言って、宗八はお菊と向かい合わせの席に腰掛けた。

 直ぐに、女給が注文を聞きにやって来る。「蓬団子、貰おうか」「はい」

「出帆の準備は、お済みになったの?」

「むっ、済んだけど・・・出来れば、琉球王国にて揃えた方が、良さそうじゃ・・・薩摩から来たと直ぐに、見破られてしまう」

「大変なお仕事なのね・・・」と、お菊。

 女給が、蓬団子を運んで来た。宗八にお茶を注ぎ終えた女給は、また厨房の方へと、さっさと歩いて行った。

「美味いなあ〜」と、宗八は、蓬団子を美味そうに頬張る。<相変わらず美味そうに、お食べになるのね>と、お菊は、宗八の食べっぷりに見惚れている。食する宗八は、何時も美味そうに食べる。いつもの癖であった。

<この美味い坊津の団子を、いつ又食べられるのであろうか?>これが最後ねと、お茶を啜る音が、宗八に言っているように聞こえる。あまりの美味さに、思い出を喉に詰まらせそうな宗八であった。

二人は、団子を食べ終え、お茶を啜りながら、心置きなく話した。隣の席で聞いているお香には、羨ましいくらいの一時であった。

鯉屋を出た二人は、海岸通りを並んで歩いた。薩摩武士であるならば、並んで歩くことは、避けるのであるが、今は薩摩と縁を切っている宗八である。堂々と歩いた。

港を覆っていた雲は、何時の間にか何処かへ消えて、青い空を見せている。浮かぶ貿易船は、二人には、まるで薩摩の奴隷船のように思えた。金現丸は、忙しく荷役作業を続けている。<あの船ね> お菊は、金現丸を見て、直ぐに目を逸らした。今は、見たくもない船の姿であった。

 二人の後を、お香は黙ってついて来る。

お菊は、お香を振り向いた。

「お船さえなかったら、行けないのにね」お香は、お菊に小さな声で言った。

「えっ、なあ〜に」と、お菊。少し前を歩くお菊には、お香の囁くような声など、聞こえる筈は無かった。

 その頃、中村文左衛門は、向井覚右衛門に呼ばれていた。夕暮れに近かった。静粛しきった薩摩藩邸に、話す声が響く。

覚右衛門は、荷役作業の進み具合を聞いた。「予定通りに、荷役仕舞いが出来そうで御座います」と、文左衛門は、軽く頷く。

「左様か。して、何時出帆できるかのお〜」「はい、荷役作業が終わり次第直ぐにと思いましたが、風を見て、三日後に、出帆致す所存に御座います」

「むう〜 左様か・・・三名の藩士達を、宜しく頼んだぞ・・・」

「はい、充分に分かっております。犬死にだけには、させないで下さいまし」

「文左衛門、何も聞かんでくれ。そんなことには、決してさせない。この剣に賭けてもなあ〜」と、太刀に手を添えて言った。

 <思った通り何かある。向井様のあの様子からして、薩摩の重大な事が、隠されているやも知れぬ。しかし、今は何も聞かぬ方が良い> 文左衛門には、覚右衛門の心の痛みが、解るような気がした。<我には、一切関係の無いこと。触らぬ神に何とやら・・・ただ、見守るしかない。三名の御方達を、琉球王国まで無事に送り届けることが、課せられた使命。それだけで良いではないか>

「お武家様達には、私ら凡人には、解らぬ事が、お有りで御座います故。向井様、お察し致します」と、文左衛門は頭を下げた。

「拙者も、竺土とやらに、自由気ままな旅がしてみたいと思うぞ。長い航海故、呉々も気を付けて参れよ」

「ははっ、有り難いお言葉、私には、勿体のお御座います」と、深く頭を下げた。

 きょうは金現丸が、出帆する日である。

一昨日から降り続いていた雨も、すっかり上がり、晴れた朝を迎えていた。

 乗組員達は、早朝から船に集まり、出帆準備に追われている。上甲板を忙しく動き回る姿が、繁華な海岸通りからも見えていた。

 巳時(9時頃)になって、出帆準備も全て整い、船出するだけとなった。

「船長、藩士達は未だ乗船していないようじゃが?」と、先程、金現丸に乗船して来たばかりの文左衛門は、船内を見回して尋ねた。

「はい、もう直、乗船なさると思いますが・・・迎えの者を出しましょうか?」

「いや、それには及ばぬと思うが」

「そうですね。時刻も心得ている筈ですしね」 

桟橋には、金現丸を見送る人々で、ごった返している。混雑しているその中には、金現丸乗組員達の家族や宗八を見送るお菊達の姿もあった。寂しい思いが、彼らを無口にさせている。燥ぐ子供達の声が、益々お菊の心を切なくさせていた。

桟橋近くの検問所から、きょうに限って桟橋への立ち入りが許されていた。向井覚右衛門の、粋な取り計らいである。

「宗八様達は、お見えじゃないようね?」

「未だのようですね」と、お菊に聞かれたお香は、背伸びをして、宗八を辺りに探す。

「あっ、あそこ、ほら、お菊様」と言って、歩いて来る宗八達を、指した。

船乗りに身形を変えた宗八達の姿が、目に入ったお菊は呆気にとられて、思わず、「あっ!」と、叫んだ。変わり果てたその姿は、お菊の目を疑う程であった。丁髷も崩し、見るからに船乗りである。お香には、宗八達の姿が、良く分かったものだと、首を傾げる。お菊は宗八の許へと、駆け寄って行った。

「宗八様!」と、宗八に頭を下げたお菊は、他の二人にも、深々と頭を下げた。お菊の礼に応えて、皆は軽く会釈をする。

「お菊殿、見送り忝い」

「御武運を、お祈り致しております。お体には、呉々もお気を付けて・・・」

 筵に包んだ太刀を抱えている宗八に、お菊は優しく言った。宗八は、頷いて応える。「お荷物は、それだけ?」

「いや、先の通船で、運ばせておいた」

「そうでしたの」と、お菊。

「それじゃ、皆が待っている故」と言って、軽く頭を下げ、通船に乗り込んで行った。

通船は、桟橋から離れて、船首を沖に向けた。ゆっくりと、離れて行く。騒めきが起こっている。お菊は、金現丸へと近付いて行く通船を黙っまま、じっと見守っていた。

「お菊様、着いたようで御座いますね?」

 金現丸に横付けになった通船から、宗八達は、縄梯子をよじ登って行く。

 全員が乗船したようである。通船が、桟橋へゆっくりと引き返して来る。騒めきが治まり、見送る人々は、固唾を飲んで金現丸を見守った。

「これはこれは、良く御出で下さいました」船長室に入って来た宗八達に、文左衛門は椅子に掛けるようにと手招きをして言った。宗八達は、頷き椅子に掛けた。

「船頭の中村文左衛門で御座います。こちらは、船長の折田作兵衛に御座います」

「文左衛門殿、存じております。拙者は、宮下幸蔵に御座います」「拙者は、久保宗八で御座います」「長谷十蔵に御座います」と、お互いに紹介し合った。

「拙者達は、もう薩摩とは何の係わり合いも無い者に御座います。琉球王国へ着きましたら、偽名を名乗ることになっておりまする」

「ご心配なさるな。それよりも、お体を、お厭い下さいましよ・・・琉球王国までは、可成の距離が御座います故、船酔いなどに悩まされると思いますが、なあ〜に、直ぐに慣れると存じます。ゆっくり、船旅と行きましょう」 文左衛門は、彼らの身を案じ、労わる言葉を掛けた。琉球王国へ着くと、どんな試練が待っているとも判らぬ。せめて、航海中は、楽しく愉快に過ごさせてあげたいと思った。

「さあ〜 船出で御座いますよ。・・船長」と、文左衛門は、出帆の合図をした。

 船長は、「失礼します」と言って、席を立ち、船橋へと上って行った。

「銅鑼を鳴らせ」と、船橋にいた舵取りに船長は命令をする。舵取りは、船橋から「銅鑼を鳴らせ」と、復唱した。銅鑼の音が、船内に響いた。

桟橋の近くで見送る人達は、騒めき発つ。

「錨を上げ〜い」次に、「帆を揚げ〜い」と、船長は叫んだ。

復唱と共に、錨が上げられ、メインマストの帆が揚がる。次第に船は、船首を沖に向ける。その姿を見送る人達は、じっと見守っている。見送る人達は、静かになっていた。

「帆を揚げ〜い」と、再度、船長の号令が掛かった。復唱と共に、全帆が揚がり、船はスピードを増す。金現丸の勇姿である。

その姿を、菖蒲谷の高台で見送る僧侶達の姿もあった。興禅寺の住職覚龍と僧侶の成海達である。出帆して行く金現丸の姿に、覚龍は深い溜め息をついた。

「無事に、帰帆なされよ、文左衛門殿」覚龍は、目を瞑り手を合わせて、金現丸の出帆を見送った。

 見送るお菊も、祈る思いであった。お菊の側で、お香は、船出する姿に両手を握り締めている。見送る誰もが、無事を祈っていた。

金現丸は、だんだん小さくなる。航跡は、太陽の光を受けて眩しいくらいに、きらきらと輝く。その、ダイヤモンドの輝きに似た一筋の航跡を残して、金現丸は、竺土へ向けて出帆して行った。

「行ったようじゃのお〜」と、向井覚右衛門は、小さくなる金現丸を、薩摩藩邸の庭から眺めて言った。大野忠永は、頷いて応える。

「琉球の水は、あの者達には、合うであろうか? 無駄死にはさせない故、辛抱致せよ」覚右衛門は、厳しい目を見せた。

唐船奉行の本田清重郎も同じように、金現丸の出帆の様子を、同じように薩摩藩邸の窓から密かに眺めていた。娘お菊の思いを寄せる宗八が、琉球王国へと旅立つ。殿の命とは言え、不憫な二人に、手を合わせる思いであった。

「お菊様、行ってしまいましたね」

「そうね・・・・・」と、お菊は、船出して行った金現丸の残像を、そっと心で追う。宗八と過ごした思い出が、湧き水の如く、次から次へと湧いて来る。知らず知らずに、涙が頬を伝わっていた。

<かわいそうな、お菊様>と、お香の頬も、涙で濡れていた。

      <別れ>

   さよならも言えず

        見送った

     あなたの姿が、目に浮かぶ

    繰り返す別れは

        切なくて

     愛の炎が、消えてゆく

 

   夕焼けに涙

        映しても

     愛する思いは、届かない

    もう逢えぬ別れと

        知りながら

     愛の誓いを、思い出す

 

   打ち寄せる波に

        微笑んで

     別れの辛さを、隠してる

    逢える日を信じて

        夢託し

     愛の口づけ、恥じらうの

 

 金現丸は琉球王国を目指し、波を切って進む。それぞれの夢と愛する思いを乗せて、航海して行った。

 

       五

煌めく太陽が金現丸を包み、風を受けて帆を一杯に膨らませて帆走する。青々とした海に、白い航跡を引いて走る金現丸は、何も恐れぬ獅子のようであった。南へ南へと、進む金現丸の目の前には、東西の方向に横一列に並ぶ、黒島、硫黄島、竹島が見えて来る。船長は、黒島と硫黄島の真ん中を通過するように、舵取りに言った。舵取りは、大きな声で復唱する。

「船長、どんな具合だい?」と、船橋に上って来た船頭の文左衛門は、船長に尋ねる。

「北風で、追い風になっていますから、このまま行ったら、予定より早く着きそうですが」

「うむ〜 船脚も早いようじゃし、このまま行ってくれたら良いがのお〜」

「風が変わらねば、と思っていますが・・・」「変わりそうか?」

「恐らく・・・」上甲板には、帆の向きを変える為に、乗組員達が控えている。船長は、その乗組員達を見て、呟くように言った。

「奄美大島近海で、北西の風に転じるのではと、予想しておりますが」

「奄美近海で? とんでもない所で、風が変わるものよ」と、文左衛門は、吐き捨てるように言った。奄美近海では、海賊の出没が、報告されていた。

「船は東へと流され、海流もあって船脚は、随分と落ちると思います」

「むう〜 仕方あるまい。海賊が、来ない事を願うしかないのお〜 たいした積み荷は、積んでおらんので、見向きもしないと思うが十分気を付けて、航海せねばならぬな」「ちっ」と、舌打ちをした文左衛門は、今度は、「うむ〜」と、唸った。諦めた口調である。

「そうですね、こちらも、彼奴らには負けない程の武器が、ありますからねえ〜 いざとなったら、戦う覚悟ですよ」と、船長。

「今回は、薩摩の剣豪達も乗り込んでいることだし、まずは、安心だが・・・どうした、あの御方達は? 見えんようじゃが・・・」

 それ程の時化でもないのに、宗八達薩摩藩士は、船酔いに悩まされていた。

食べた物は、全て吐き出し、もう吐き出す物さえ無かった。

「久保様、何か食べにゃあ〜」と言って、善兵衛と六助が、床にぐったりとして、寝そべっている宗八達に、食事を運んで来た。

「善兵衛、要らぬ・・・食えない」と、首を横に振る。構わず二人は、藩士達の前の床に食事を置いた。食事の香りに、戻しそうである。食欲は無く、喋る事さえもしたく無かった。<こんなに苦しいとは、知らなかった。このままでは、琉球王国へ着けることやら?>藩士達は、同じ事を考えていた。

「皆、食事は、済んでいるんでやすよ」善兵衛は、食べるようにと、説得するような言い方をする。六助も、そうだと頷いた。

「食べて、吐き出す。ね、食べては、吐き出す・・・宮下様」と、六助は小刻みに笑う。

「六助、揶揄うと、たたっ斬るぞ」と宮下幸蔵。

「揶揄っちゃあいません。そうすれば、船酔いなんぞ、直ぐに飛んで行きまさあ〜」

「左様か? そんなもんかい?」と、宗八。

「そうでやんすよ。食べないと、船酔いは、治りませんぜ。久保様、さっ、宮下様に、長谷様も、無理して食べて」と、六助は、藩士達に食事を薦める。皆は納得したのか、「うん」と頷いて、言われるまま素直に食べる。

「どうです、美味いでやしょ?」

「善兵衛、美味いぞ。戻したいくらいに、美味いぞ・・・うっ」と言って、幸蔵は、近くに置いてあった、大きな樽に今食べた物を吐き出した。

「ああ〜 やっちまいやがった」と、六助。 

藩士達は、善兵衛達のアドバイスもあり、何とか食事を終えることが出来た。上甲板に上がるように、善兵衛は誘ったが、動きたくないと断られる。

藩士達は食事を口にするようになった。これで何とか船酔いも直るだろうと、安心した善兵衛達は空になっている食器を下げるのであった。

 金現丸は、紺碧の海を切り裂くように帆走して行く。両舷には飛び魚が、金現丸を歓迎するかのように、船と並んで飛んでは海に落ちて行く。

黒島と硫黄島の中央を通過する。口永良部島を左舷真横にに見て、南西に進路を変えた金現丸は、船脚が落ちることもなく、順調に南下して行った。

そろそろ海賊の出没が、予想される。見張り役を増やして海賊の襲撃に備えていた。

 臥蛇島を右舷に中之島を左舷に見て、南西に南下して行く。薄明は水平線を、くっきりと浮かび上がらせる。もう夜明けであった。

一際明るい星が、瞬きをするかのように光を放つ。船長は船橋にあって、航海士の伸滋達と見張りに当っていた。海賊の襲撃は、皆が未だ寝込んでいる夜明け前であると読んでのことである。川辺十島と呼ばれるこの近海は、小さな島々が点在し、海賊達の隠れ家としては、絶好の海域である。危ない綱渡りの心境であった。

何事もなく、夜は明けて行く。<海賊は、お出ででなかったようだ>当直の航海士伸滋は、安堵の溜息をつく。

大きな太陽が、水平線から昇り始めている。緊張の夜明けであった。

「失礼します。交替です」と言って、朝食を済ませた航海士の源四郎と舵取りの直吉他二名が、船橋に入って来た。源四郎は、航海士の伸滋の引継ぎを、頷きながら聞いている。直吉も、引継ぎを済ませる。

「じゃ、後は宜しく」と言って、引継ぎを済ませた航海士の伸滋は、船長に、「お疲れ、それじゃお先に」と言って挨拶した後、舵取り達を伴い、船橋から下りて行った。

 上甲板でも、帆を操作する乗組員達の引継ぎが、行なわれていた。

金現丸は、風に乗り、予定通り順調良く帆走している。このまま行けば、予定より早く着くと思われた。

久保宗八達は、気分良く目覚めた。船酔いもなくなり、食事を済ませた藩士達は、船頭中村文左衛門の後を見物にと船橋に上って来た。

「御気分は、如何かな? 昨夜は、良く眠れましたか?」と、挨拶を交わした船長は、藩士達を気遣って言った。

藩士達は、「船酔いも取れて、良く眠れまして御座る」と、応える。爽やかな風が、肌を掠めて行く。船にも大分慣れて、余裕を見せる藩士達であった。

「船長、予定より早く着きそうじゃのお〜」文左衛門は、安心した口調である。

「船長! 左舷前方に、海賊船らしき船が見えます!」と、船長の文左衛門に応えようとする言葉を遮るように、船首マストに登っていた見張りが叫んだ。

「何!」と、皆は一斉に左舷前方に目をやった。確かに、船である。船が二隻、ぶつかっているように見える。

「進路を、左に」と、船長は、船の見えている方向へ、進むように言った。

「海賊に襲われておるのか?」と、船頭の文左衛門。

金現丸は、その方向へと進んで行った。だんだんと近付く。・・貿易船である。文左衛門の予想した通り、海賊の襲撃を受けて、貿易船では戦いの真っ最中である。

「畜生! 彼奴ら、ふざけやがって」と、直吉は言い放った。

「どうします船頭?助けに行きますか?」船長は、文左衛門に聞いた。

「どうなさいますか?宮下様、武器は、十分揃っております」と、文左衛門は、藩士達に聞いた。藩士達は首を傾げ、応えを控えた。黙ったままの藩士達である。

「戦いましょう! 船頭!」と、直吉。

藩士の一人、宮下幸蔵が口火を開いた。「この船は、勘合船ではなく、貿易船じゃ。戦えない訳ではないであろうが、金現丸乗組員達を危険に曝す事は避けたい。戦えば、必ずや犠牲者が出る。船にも危害が加わるであろう。長い航海故、そうなれば、竺土まで辿り着けるかどうかも判らぬぞ。たとえ海賊に勝ったとしても、航海するには余程の覚悟が必要であろう。我らも、他に大事な藩の使命を持っておる。ここは、黙って通過するしかあるまい・・・・」

 幸蔵は、淡々とした口調で言った。その言葉は、直吉達乗組員には、冷たい言葉に聞こえた。出来れば、一緒に戦いたい。

「・・・分かりました、宮下様。船長、悔しいが、ここは目を瞑って通過しよう」と、文左衛門は言って、乗組員達を納得させるのであった。

貿易船の上甲板では、海賊達と戦っている勇ましい姿がある。無抵抗で、積み荷を引き渡すことをすれば、助かるのであるが、勇敢にも戦っている。その姿に、皆は声援を送りたい心境であった。舷側に皆は集まって、その戦いを遠くから眺めた。

「戦いは、海賊に軍配が、揚がったようじゃのお〜 海賊船に、積み荷を移しておる」直ぐに、片が付いたようであった。

貿易船の船上で、海賊達から縛られている乗組員達の姿に、文左衛門は少し安心した。命までは、取らないようである。これで、黙って通過できる。<恐らく自力で、何処かの港へ向かってくれるであろう。無事を祈るしかあるまい> 祈るような深い溜め息を付く文左衛門であった。

「彼奴ら、荷を奪って、どうする積もりじゃい。売り捌く所が、あるってのかい?」

「直吉、都の貿易商と、手を組んでいると聞くぞ」と、船長。

「何ですって? それで、荷は直ぐに捌けるって訳ですかい・・・なある程・・・」

「巧く、逃げおうせているらしいのお〜 大棚の貿易商らしいが・・・まだ、尻尾は捕まえていないらしい」と、文左衛門は、直吉を見た。直吉は、むっとした顔を見せる。

「沖で待ち合わせといて、奪った荷は、積み換えるんでしょうねえ〜」と船長。

 命を賭けて遠く明国から運んで来た積み荷を、易々と、日本を目の前にした所で奪われてしまう。直吉は、腹立たしい思いである。

「そう云う事じゃ・・・向井様達も、躍起になって、悪の張本人を探しているようじゃが・・・」と、文左衛門は、宗八を見た。

宗八は、「そうだ」と、軽く頷いて、文左衛門に応える。

「さあっ、船長」との文左衛門の声に、船長は、「ようそろう! 南西に進路を変えよ」舵取りの復唱と共に、進路は南西に変わった。

金現丸は、何も見なかったことにして、琉球王国を目指して、南下して行った。

宝島を左舷に見て、更に横当島を左舷に通過する。海賊の襲撃を恐れて、奄美大島から大きく離して進む。追い風だった風が、急に北西に変わった。帆が、ぱたぱたと揺れる。「風が変わったようじゃのお〜 よ〜し」航海士の源四郎は、「風に立て〜い! 進路は、西に」と、叫んだ。

帆の向きが、一斉に変わった。舵取りは、西に進路を取り、前の進路を維持して進む。

「船長に、間もなく琉球王国だと報告してくれ。船頭にもな」と、源四郎。

舵取りの一人が船長に報告に、船橋から下がって行った。風の急変にも、訳なく対応して、順調に帆走する。琉球王国も、間近に迫っていた。

源四郎と直吉達舵取りや帆を操作する乗組員達が、交替して、新に当直に付いていた。伊是名島を、左舷に通過した金現丸の船内に、鐘が鳴り響いた。入港準備である。

「南東に進路を取れ」との、三番目の航海士末也の号令に、舵取りは、復唱して応える。三番目の航海士末也は、見習を兼ねている。極度の緊張を抑えていた。乗組員達は、入港準備の為に、忙しく動き回る。琉球王国に向けて、金現丸は、少しずつ近付いて行った。

船長が船橋に現れて、ゆっくり近づくように航海士の末也に指示を出す。船は、透き通って珊瑚の見える海を進んで行く。

「そろそろじゃのお〜」船橋に上って来た文左衛門は、目の前に浮かぶ琉球王国を見て言った。船長達も、懐かそうに眺めている。だんだん近付いて来る。

「あれが、琉球王国ですか?」と、他の藩士達と一緒に船橋に上って来た宗八は、初めて見る琉球王国に胸が弾んだ。

「そうです。あそこが、琉球の港ですよ」文左衛門は、宗八達藩士に指して教える。「ああ、あそこですか・・・」藩士達は、何が待っているか判らぬ迫り来る琉球王国に、胸の熱くなる思いであった。

「銅鑼を鳴らせ〜い!」と、船長は叫んだ。銅鑼が、船内に鳴り響いた。

「帆を降ろせ〜い!」と、船長の号令が、船内に大きく響く。乗組員の復唱と共に、全帆が一斉に降ろされた。船は、他の貿易船を避けながら、惰力に因って進んで行く。「錨を降ろせ!」と、船長。錨が打たれ、無事、琉球王国の港に停泊である。

「着きましたね・・・・・宮下様、久保様、長谷様、向井覚右衛門様から預かった物が御座います。船長室まで御出で下さい」文左衛門は手を招いて、藩士達に言った。「預かっている?」「さあ、こちらへ」

 船長室に入った文左衛門は、椅子を指し示して腰掛けた。藩士達も、椅子に掛けた。

「任務とはいえ、大変で御座いますね。上陸されたら、行くあては御座いますのか?」

「いや、ない。人夫達の中に、潜り込もうかとも思っておる・・・」と、宮下幸蔵は、腕を組んだ。久保宗八は、長谷十郎と顔を見合わす。

「訓練なさっていらっしゃると、お聞き致しておりますが、何せ他国故、十分にお気を付けて下さいまし。私達や薩摩の貿易船が、琉球王国に来る筈ですので、何か困ったことでもあったら遠慮なさらず御出で下さいましよ。繋ぎを取ることも出来ましょうから、きっとお役に立ちましょう」

「忝い。その時は、よしなにお願い致す」長谷十郎は、深く頭を下げた。宗八達も、文左衛門の好意に、深く頭を下げる。

「失礼します」と言って、船長が、部屋に入って来た。文左衛門は、船長に振り向いて、「船長、預かっている、あれを・・・」「はい」と言って、船長は、机の引き出しから包みを取り出して、文左衛門に手渡した。包みを開いた文左衛門は、「これは、金で御座います。どうしても、使わなければならない時にだけ、お使い下さるようにとのことで御座いました」と言って、包みの中で輝く金塊を見せた。皆は、溜め息をつく。

一握りの小さな金の粒は、黄金の色である。文左衛門は、ゆっくりと包み直して、藩士達の前に差し出した。皆は、小さく溜め息をつく。

「ささっ、早くお仕舞下さい」と文左衛門。

幸蔵が、「それでは、拙者が」と言って、皆を代表して受け取り、懐の中へ入れた。

「船頭、臨検がやって来ます」乗組員が、船長室に報せにやって来た。

「そうか、いつものように頼むぞ」

「はい、承知しました」と言って、臨検を迎える準備の為に、部屋を出て行った。

「御心配なさらないで下さいまし。ただ、積み荷を調べるだけです」文左衛門は、不安そうにしている藩士達を見て言った。

その言葉に安心した様子を見せた藩士達を船長は、乗組員達も知らぬ隠し部屋に案内する。

「ここで暫らく、お茶でもお飲みになっていて下さい」と、隠し部屋に案内した船長は、ゆっくり寛ぐように言った。

「こんな所に、隠し部屋があったとはのお〜驚くぞ」と、ドアを閉めて、部屋から出て行った船長の後ろ姿を、藩士達は心で追った。

 部屋の中を見回す。<一体誰が、何の為に使う部屋であろうか?> 思いもしなかったそれは、豪華な作りであった。

 臨検の為の小船が、近付いて来る。

小船は、金現丸に横付けになった。

 投げられた縄梯子を、琉球王国の役人達が、よじ登って来る。上甲板に、辿り着いた役人達を、乗組員が船長室に案内して来た。

「船長、臨検です」「分かった」船長は、部屋に入って来た役人を、<椅子に座るように>と、手を招く。役人達は、ゆっくりと椅子に掛けた。船長は、自分を紹介した後、船頭の文左衛門を紹介する。

度々琉球王国を訪れて、見慣れているとは云っても、民族衣装を纏った役人達の姿は、異様な感じに映る。チャイナ服にも似たその衣装は、威圧するようにも思えた。

「何処から来られたのですかな?」役人は、物静かな声で聞いた。

「坊津からに御座います」と、船長。

「何、坊津から。我が琉球王国へ来られたのは、何の為かな?」と、船長を覗き込むように見る。船長は、少し戸惑いを見せた。

坊津を知っているようである。余計な説明をしなくても済むと、船長は思った「はい、飲料水を積み込む為に御座います」

「坊津には、水はないのかな?」と言って、小さく笑った。船長も、釣られて笑った。

「我ら船乗りにとって、水は生命に御座います。坊津は、雨に遭いまして、随分と濁っておりました。濁り水など、とても積み込むことは出来かねます」と、文左衛門。

「うむ〜 全くその通りじゃ・・・して、積み荷は、何で? 何処へ行かれるのかな?」「積み荷は、硫黄の類いに御座います。竺土へ向かいます」と、船長は、会釈をした。

「そうですか・・・宜しい。琉球は、水が不足していますが、まっ、宜しいでしょう。許可致しましょう」「有り難く存じます」

<琉球王国は、飲料水が不足しているとは、予想外であった。取り敢えず、上手く行った> 文左衛門は、身の縮まる思いであった。

臨検を済ませた琉球王国の役人達は、小船に乗ると、桟橋の方へと戻って行った。積み荷の検査もなく、安心する文左衛門であった。

時は既に、夕暮れになっている。船長は隠し部屋に、藩士達を呼びに行った。臨検は無事に済んだことを告げると、藩士達は、安堵の表情を見せる。船長室に戻り、文左衛門と船長に、頭を下げて、感謝の言葉を言った。「お礼の言葉など、勿体のお御座います」文左衛門と船長も、頭を下げて応える。

「小舟が、準備してありますので、それに乗って上陸して下さい、三食分の食料は、ここに・・・」と言って、船長は、食料を一人ずつ手渡した。

「忝い」と言って、受け取る。「御武運を、お祈り致しております」明日をも知れぬ藩士達を思うと、目頭の熱くなる思いであった。

「文左衛門殿達も、航海の安全を祈ります」宗八は、笑顔を見せて言った。

「また、お会い致しましょう」

「はっ、文左衛門殿、いつか又、約束致しましょう。次は、酒を飲み明かすと・・・」十蔵も、目頭を熱くしていた。

薩摩藩士達は小舟に乗り移ると、桟橋を避けて人気の無い岩場へと上陸して行った。

「無事に、上陸なさったかな?」

 小舟が、戻って来る。<誰に気づかれることなく、無事に上陸なさったようじゃ。これで、お役も済んだ> ほっと、肩を撫で下ろす文左衛門であった。

飲料水を積み込んだ小船が近付いて来る。金現丸に横付けになった。港に停泊する目的だけの為に積み込む、少ない量の水である。形だけの積込みで、直ぐに済んでいた。

 飲料水を積み終えた小船は、金現丸から遠ざかる。銅鑼が船内に鳴り響き、出帆準備に取り掛かった。乗組員達は、忙しく動き回る。

「錨を上げ〜い!」と、船橋の船長は、叫んだ。錨が上がり、船はゆっくりと動き出す。「帆を揚げ〜い!」との船長の号令に、乗組員は、復唱する。一斉に全帆が揚がった。風を受けて、全帆が大きく膨らむ。金現丸は、竺土へ向けて出帆して行った。

大きな夕日が、水平線に落ちて行く。青い海を真っ赤に染めて、沈みゆくその姿は、藩士達の無事を、暗示しているように思えた。

 

       六

琉球王国を出帆した金現丸は、宮古諸島を右舷に見て、南西へと南下して行く。海の底までも透き通る青々とした海は、太陽の光に照らされて、眩しく輝く。追い風を受けて、全帆は大きく膨らみ波を切り進む。青い海に引かれる一筋の白い航跡は、何処までも何処までも続いていた。

 文左衛門は、船橋にあって、目の前に広がる雄大な海を、ぼんやりと眺めた。

白い鳥が、船の近くを舞う。囀ることもせずに、舞う二羽の鳥に、「何処までついて来る積もりじゃ?」と、独り言を言った。

「船頭、何処にも船は見えませんねえ〜」

 当直の六助は、退屈そうにしている船頭に声を掛けた。文左衛門は、振り向いた。

「未だ未だこれからじゃぞ、六助。そろそろ島が見えて来る筈じゃから、よ〜く、見張っていてくれよ」と、六助を見た。

「分かってやすよ、船頭。こう見えても、目は良い方ですんで」

「頼りにしているからのお〜 六助」「へい。任せておくんなせえよ」

 六助は、船頭に微笑む。文左衛門は、「分かった」と言って、六助の肩を、ぽんぽんと叩くと、船橋から下りて行った。

 風向きが、変わったようである。

「帆を、風に立て〜い!」と、航海士の伸滋は大きな声で叫んだ。その号令に、上甲板の乗組員達は、ロープを引っ張り、帆の向きを一斉に変えた。船は、風に乗り帆走する。金現丸は、呂宋を目指して南下して行った。

航海士の源四郎、舵取りの直吉達や帆を操作する乗組員達は、当直を替わっていた。海は、魚の鱗のように凪いでいる。その上を、黙って帆走する姿は、正に海の貴婦人であると、源四郎は我が船に溜め息をつく。船と海を、こよなく愛する源四郎であった。

「島が見えます!」と、マストに登っている見張りが叫んだ。その声に、「何処じゃ!」と、源四郎は、思わず叫んだ。

「左舷です。左舷船首!」遠くに、うっすらと島影が見える。

「船長を呼んで来い」との源四郎の命に、休んでいた舵取りは、「へい、分かりやした」と、船長を呼びに下りて行く。

「島が見えているのかい?」と言って、船長は、船橋に上って来た。船首方向を見ていた船長は、「うむ〜 イバヤット島じゃな、間違いない。島を左舷に、南西に進んでくれ」「分かりました」と、源四郎。

「南に流されても構わん。東に流されんようにの。呂宋が見えたら、南へ進路を取る」

「呂宋本島に沿って、航海するのですね」

「そうだ。頼んだぞ」と言って、船長は直ぐに、船橋から下りて行った。

船長には、乗組員達や船と積み荷の安全を守らなければならないと云う他に、自分に代わる者達を育てなければならないと云う使命が課せられていた。全面的に任せることで、航海の腕を研かせようとしていた。

 島が、だんだん大きく近付いて来る。

船は、左舷の島と並んだ。源四郎は、進路を南西に変えるように、舵取りに言った。

帆の向きが、上甲板にいる乗組員達に因って変えられる。船は風で、西へ流されるようである。源四郎は、更に南へ進路を変えるように言った。帆の向きも少し変えられて、南西へと船は、帆走する。

「よし。これで良い」と、源四郎は、安心した声を出した。あとは、海流に流されないように、注意する必要がある。源四郎は、注意深く、船の航跡を見守った。

船は、バシー海峡を通過して、南西へと帆走する。潮の流れは、それ程、強く受けていないようである。バタン諸島を左舷に見ながら、呂宋目指して次第に南下して行った。

バリンタン海峡を横切り、ハブヤン諸島を左舷に見ながら金現丸は、順調なる帆走である。船を操船する乗組員達は、次の者達と引継ぎを済ませて、当直を交替していた。

 目の前に、大きく迫り来る呂宋本島に、助蔵は、「ありゃあ〜 ぶつかるんじゃあ〜 御座んせんか?」と、不安げな声で呟く。

「まあ〜 慌てるなワラジ。ぶつかりゃあせん。心配するな」と、落着き払った航海士の末也に、「へい」と、応える助蔵である。

 助蔵の心配を余所に、船は、呂宋本島に沿って、南下して行った。

夜になっていた。それでも金現丸は、呂宋の海岸線に沿って航海する。夜空は、満点の星空である。南に輝く南十字星は、金現丸乗組員達を、歓迎するかのように、少し頭を下げて傾いている。船長も船橋で、南十字星の歓迎を受けていた。

船内では、乗組員達が宴会をしているようである。騒ぐ声が、聞こえている。文左衛門はそんな声を後に、船橋へと上って行った。

真っ暗な船橋には、ランプがひとつ、海図を照らすように下がっている。

「どんな具合じゃ?」「ああ〜 船頭、何事もなく、順調です」と、航海士の伸滋。

 時化に遭うこともなく、呂宋に辿り着けるとは、思いもしなかった文左衛門である。雨に遭わなかったかわりに、飲料水を大分消費している。

「船長、呂宋では、飲料水も補給する必要があると思うが?」と、文左衛門は、船首の方向を、黙って見張っている船長に言った。

「はい、食料と一緒に補給しましょう」

「いつ頃、入港できそうか?」「夜明け頃と思いますが・・・」

「予定より早いのじゃのお〜」

「運よく風に乗っているようです。潮流にも遮られることもなく、時化にも遭わず、幸先良さそうですねえ〜 船頭」

「そうあれば、良いがのお〜 油断は禁物じゃぞ」と、文左衛門は、釘を刺す。

「はい、・・・・・入港したら、乗組員達を休養させなくても良いでしょうか? 今夜は随分と、騒いでいるようですが・・・」

 乗組員達の宴会で騒ぐ声が、船橋まで聞こえて来る。乗組員達の苛立ちも、最高潮に達していると、船長には思えた。

「先も長いからのお〜 五日だけ停泊しようか? 依存は、あるまい。船長」

「ええ〜 結構ですよ。乗組員達は、喜ぶことでしょうね」と、船長は、暗い船橋に文左衛門を探すように見た。

「よっし、それではそう云うことで」

「船頭、今夜の夜空は最高でやんすねえ〜 吸い込まれて、行きそうでやんすよ」

「六助、顔に似合わず、なかなか乙なことを言うのお〜」と、文左衛門。

「船頭、顔じゃねえと、いつも仰っているじゃあ御座んせんか? あの星達を見てると、なんか、こう、胸が熱くなりまっせ」

「星に興味があったとは、驚きじゃなあ〜 南蛮辺りでは、星の一つ一つに、名前を付けているらしいぞ。輝く色も違うであろう?」「船長、それは、ちょいと失礼じゃあ御座んせんか? あっしだって、たまには、星空は見まさあ〜 名前を付けているとは、驚きでやんすねえ〜 名付け親ってことで? 御座んすかい・・・いつ生まれたんですかい?」

いつ生まれたのであろうか? 船長達にも興味い質問であった。「いつ生まれたんじゃろうのお〜」思う程に、夢の湧いて来る船長達であった。 

時は過ぎ、夜明け前であった。船首マストに登っている見張りから、船首の方向に、黒い島影が見えるとの報告を受けた。

 ミンドロ島である。

「取り舵一杯〜い」と、当直を交替している航海士の源四郎は叫んだ。

「取り舵一杯」と、直吉は復唱する。

「進路は東に、よう〜そろう〜」「帆を風に立て〜い」と、源四郎は上甲板に向かって叫んだ。

帆は、風を受けて膨らむ。船は、両側を山に囲まれた湾の中に向かって、帆走して行った。

「鐘を鳴らせ〜い」との、航海士源四郎の号令に、鐘が船内に鳴り響く。

 全員起床、入港準備の合図である。

船頭文左衛門と船長が、船橋に入って来た。

「待ちに待つ入港か・・・」と、文左衛門。

 薄明りの中に、港が見える。

「帆を降ろせ〜い!」と、船長は、大きな声で叫んだ。復唱の声と共に、全帆が一斉に降ろされた。船は、ゆっくりと近付いて行く。停泊する場所が、決まったようである。「錨を降ろせい!」との船長の号令に、錨が打たれた。呂宋は、マニラに入港である。

 港には、貿易船が、多数停泊している。

「未だ夜明け故、暫らく待たねばならぬようですね? 乗組員達は、当直の者だけを残して、上陸するようにさせましょう」

「うっん、宜しく頼んだぞ」と、文左衛門。

呂宋の臨検が来るまで、乗組員達は、それぞれ船内で待機することとなった。

 波間に揺れていた灯は、何時の間にか消えて、貿易船は太陽の陽射しを一杯に受けている。日は昇り、静かな朝であった。

小船が、金現丸に近付いて来る。呂宋の臨検であった。縄梯子をよじ登り、上甲板に着いた三人の役人は、見張りに案内されて船長室に入る。文左衛門達とは、顔見知りの役人達である。船長の手招きに、椅子に掛けた役人達は、出された酒を味わうように飲んだ。薩摩の酒は、異国では好まれる。

「暫らくであったのお〜 ささっ、遠慮せずに、ぐっと、ぐっと、飲んで・・・」文左衛門の鼻息の、掛かっている役人達である。注がれるまま、酒を飲む。

 料理が運ばれて、机の上に置かれた。箸を持つ手が、不精に動く。やっとの事で、口に運んだ手料理を美味そうに頬張った。

 食料と飲料水の手配は文左衛門の船を見て、既にしてくれていると、役人の一人が告げる。

「ありがとう。パイク」と、文左衛門は頭を下げて、お礼を言った。マニラに入港した時は、食料と飲料水を、いつも積み込んでいる文左衛門の船に、気を利かせてくれたパイクに感謝する思いであった。

「文左衛門、次は、何処へ行く?」パイクは、酒を飲みながら聞いた。

「竺土へ行く」と、文左衛門も酒を飲む。

「インディアか・・・遠いなあ・・・航海の安全を祈るぞ」と、パイク。

 文左衛門は、又お礼を言った。船長も、お礼を言って、パイクに酒を注ぐ。

パイクは、微笑んで酒を受けた。仕事は、そっち退けである。手料理に舌鼓を打ち、酒を飲んだパイクは、薦める酒に、「もう飲めない」と、飲むのを止めた。

 又会おうとの約束を交わし、「じゃあ〜 文左衛門、これで失礼する」と言って、パイクは、伴の者を伴い、当直の乗組員に案内されて、船長室から出て行った。

 文左衛門達懐かしい友に会いに、そして酒を飲み交わしに船長室に来ただけの臨検であった。

 臨検を終えた金現丸に、上陸する乗組員達を迎えに通船が横付けする。この通船も、パイクが手配してくれたのであった。

他の貿易船を避けながら、通船は乗組員達を乗せて金現丸を往復する。通船は、桟橋に横付けした。乗組員達は、当直の者達を残して、上陸して行く。桟橋に着いた通船から上陸した直吉、善兵衛、助蔵は町を歩いた。見慣れた町並みを、直吉達は、のんびりと歩く。脇差を挿し、肩を振って歩く姿は、渡世人のようである。違和感のある直吉達に、呂宋の住人達は、振り向く。<酒場は未だ、何処も閉まっている筈だ。何処でも良い、店に入ろう>暇潰しにと、小間物屋に入って行った。

「南蛮人じゃないかい?」と、店の奥で、お土産品を探している四人の異人さん達に気付いて、善兵衛は言った。皆は、振り向いた。

「何処の、南蛮人じゃ?」と、助蔵。

 話したいと、三人は近付いて行った。

「おい、あんたら何処から来なすった?」助蔵は、何時もの癖を出して、気やすく話し掛ける。話し掛けられて、きょとんとした顔を見せる異人さん達である。

「通じねえようじゃ。こりゃ駄目じゃ」と、諦めかけた助蔵に、「何処から来たのか?」と、異国の言葉で尋ね返して来ているようである。なんとか通じたようである。

「薩摩、薩摩。おいら達ゃあ〜 薩摩」身振り手振りである。

「薩摩?」「やあ、やあ、薩摩」と、胸を平手で軽く叩いて、説明する助蔵である。

「ポルトガルから来ました。ポルトギース」「ポルトギス? おうおう、ポルトギス、ポルトギスね。」頷く助蔵に、直吉は、「おいワラジ、分かっているのか?」「分かっているわさ、ポルトギスじゃよ、ポルトギス、のお〜」助蔵は確認するかのように、目の前の背の高いポルトガル人に言った。

「ワラジ?」と言って、首を傾げるポルトガル人に、「おいら、ワラジ、ワラジ、分かるかい? ポリトギス」

ポルトガル人は、にっこりと頷いている。「何を買ったんかい?」と、包みを指して助蔵は聞いた。

ポルトガル人は、首を傾げて、「買い? ぞ〜く・・」と、渋い顔をした。「おい、海賊じゃとよ・・・なに、海賊?」驚いた助蔵は、「海賊が出たんですかい?海賊が」と、目を丸めて尋ねる。

「しぃ〜しぃ〜」「おい、しーしー言ってるぜ。余程、恐い目を見たんじゃのお〜 それで、何処で遭いなすったんですかい?」

「マラッカ?」「おい、マラッカじゃとよ」 助蔵は、すっかり勘違いしていた。

海賊の出没は、皆の知るところである。海賊が出たとは、聞き捨てならない。助蔵は、船に戻って、船頭達に報せねばと思った。

「酒場の店が開くには、未だ間があるぜよ。船に帰っても良いぞ。ワラジ」と、善兵衛。「そうか、そうしょうか・・・ポリトギスさん達、あっしら帰りやすんで」と言って、助蔵は、ポルトガル人達にさよならの手を振った。それに応えて、助蔵と話していたポルトガル人も、微笑んで手を振る。

 直吉達は店を出て、足早に桟橋を目指す。通船に乗った三人は、船に戻って行った。

金現丸には、小船が横付けしていて、食料と飲料水の積込み作業を、人夫達が行なっている。それを横目に、直吉達は、縄梯子をよじ登って行った。

船長室に入った助蔵は、椅子に座ると、船頭と船長を前に、先程ポルトガル人達から聞いた海賊の話をしだした。直吉と善兵衛は、黙って聞いている。

「マラッカ海峡に海賊が出たと? そうであろう」と、船頭文左衛門と船長は、それ程の驚きは見せない。有り得ることであった。

「恐い思いをしたようですぜ。しーしー言ってまさあ〜 しーしーと」「しーしーとなあ・・・」と船長。

「船長、マラッカ海峡は、矢張り避けた方が良さそうじゃのお〜」

「そうですね」と、船長は、相槌を打った。インド洋に抜ける主な航路は、マラッカ海峡を通過するか、スンダ海峡を通過するかの航路がある。小さな島々が点在して、海賊の隠れ家には、持って来いである。スンダ海峡は狭く、海賊にとっては、貿易船を狙う絶好の場所であった。

マラッカ海峡もまた、狭い海峡である。海賊船が停泊していて、通過する貿易船から通行税と称して、容赦なく金などの金目の物を略奪している。貿易船の船長達は情けなくも、海賊達に屈して金を払い、通行させて頂くと云った状況であった。

「横断道路を行こう」

マライ半島は、ゴムなどか採れて、黄金地帯と言われている。その一角に、海賊の襲撃を避ける為に開発された、貿易商や貿易船船長達だけが知る、秘密の横断道路がある。

 横断道路を進めば、海賊の襲撃も避けられる。船頭文左衛門は、その横断道路を行く決心をして言った。

「行きましょう。横断道路を・・・」船長も、賛成であった。

「報せてくれて有難う。礼を言うぞ」との船長に助蔵は、微笑んでそれに応える。直吉達は、頷いている。

 <船に、報せに戻って来て良かった>と、助蔵は思った。三人は、夕暮れの酒場の開くのを待って、又上陸して行った。

 乗組員達は、毎日のように飽きることもなく酒場に入り、女を前にして酒を飲み交わして、航海の欝憤を晴らした。

 文左衛門は船長室で、船長と航路の打ち合せを行なった。海図には、船長が書き入れる新しいラインが引かれていく。

<間違いなく、安全に竺土に着ける>船長も文左衛門も、同じことを思っていた。 

乗組員達の休養を兼ねた、五日間という停泊は何事もなく、あっという間に過ぎて行った。見えぬ風の、過ぎ去る如くであった。

食料と飲料水の積込みを、無事に済ませていた金現丸は、夜明けを待って、マニラの港から出帆して行った。

 気の遠くなりそうな、広い広い青海原が続く。行けども行けども、海又海であった。

「帆を風に立て〜い」と、源四郎が、上甲板の乗組員達に聞こえるように、大きな声で叫んだ。帆の向きが、一斉に変わった。

 追い風だった風向きが、向かい風の南西の風に変わっている。「進路は、西に」「へい、進路は西」と、舵取りが、復唱する。

「ようそうろう」との源四郎の号令に、「ようそうろう」と、舵取りは応える。

暫らく帆走して、「進路を南へ、帆を立て〜い!」と、源四郎が、上甲板に届くような声で叫んだ。帆が、ぱたぱたと騒ぎだした。帆の向きが、一斉に変えられた。全帆は、風を受けて一杯に膨らんだ。と同時に船首は、大きく南へとターンした。進路は、南へと変わり帆走する。風向きに対して、約三十度の角度を以て、右へ左へと、ジグザグ航行に入った。忙しい帆走である。船は、南支那海を横切るように、ベトナムの沖に浮かぶコンドル島を目指して、ゆっくりと南下して行った。

船上に出れば、青い海又海である。真夏のような陽射しを受けて、船は帆走して行く。乗組員達は、退屈この上ない。昼間から酒を飲む訳もいかず、六助は、皆を集めて、博打を行なおうと、相談を持ちかけた。退屈していた皆は、大喜びである。乗組員の一室で、賭博場が開かれた。

豪勢な作りの船長室とは違って、乗組員達の部屋は、六人部屋と質素である。

「さあ〜 良いかな? 良いかな? そら行くぞ」と言って、六助は、右手に持っていた二個の賽子を、手の平で転がすようにして、床に置いてある茶碗の中に投げ入れた。

賽子は、茶碗にぶつかるチリンという音がして止まる。皆は、茶碗の中を覗き込んだ。

「畜生! 丁の目かい」

二個の賽子の目数が、偶数か奇数かを当てる丁半博打である。無造作に床の上に置かれていた小銭を、六助は掻き集めて、当てた人に分配する。小銭が、床に投げられた。半の目の所に、小銭が集中している。

「チンチロリン、チンチロリン、さあ〜て行くぞ、良いかな? 良いかな?」投げ入れられた二個の賽子は、チリンと言って、茶碗の中で回って止まった。

皆は、茶碗の中を一斉に覗き込む。

またしても、丁の目である。「ちっ! またかよ・・・」と、愚痴る乗組員、手を叩いて大喜びする乗組員。賭博場は、戦場であった。

時化の多い海の上は、揺れている床の上に賽子を振っても、船が傾いて賽子が転がり、直ぐに目数が変わってしまう。一度出た賽の目が、簡単には目数が変わらないようにと、茶碗の中に投げ入れるという、船乗り達が考えだした博打であった。いかさまの出来ない、博打である。乗組員達は、細やかなる小銭を出して、賭博を楽しんだ。負けても、苦にならない程の小銭であった。

風は北東に変わり、追い風になっていた。帆は、風を受けて大きく膨らみ、波を切って進む。船首にぶつかった波が、時々上甲板に上がる。青い海原に、小さな白い波が至る所に見える。蒸し暑さも構わずに、更にスピードを増した金現丸は、南支那海を斜めに横切るように、南へ南へと帆走して行った。

 昼前であった。

「船首の方向に、島が見えます!」と、船首マストに登っている見張りが、叫んだ。

「何処じゃ?」と、航海士の末也は、島を探す。

 水平線に、微かに見える島影に、末也は、「あれは大陸じゃのお〜」

「大陸でやんすかい? 何処の大陸でやんしょ?」と、助蔵は、横に長く広がる大陸を見て言った。舵取りも帆を操作する者達も、船首方向に見える大陸を眺めた。

 大陸は、だんだん大きく見えて来る。

船長を、呼んできてくれとの航海士末也の言葉に、舵取りのひとりが、船長を呼びに船橋から下りて行った。

「間違いない、そのまま進め」と、末也。

 大陸に突っ込むように、進んで行った。

 暫らくして、船長が、「大陸が見えているんじゃと?」と言って、船橋に入って来た。迫り来る大陸に、助蔵は、「船長、ぶつかるんじゃあ〜 ないでしょうねえ〜」

「なあ〜に、末也に任せておけば、大丈夫じゃろう・・・海岸線に沿って、走ってくれ。あとは頼んだぞ」と言って、船長は、船橋の外に出た。程よい風が、肌を掠めて行く。

「取り舵一杯!」と、末也は号令する。

「取り舵いっぱ〜い」との復唱の後、「帆を立て〜い」と、大きく叫ぶ。「帆を立て〜」 船は、大きく左舷に傾いた。目の前の島を避けて大きく左舷にターンした船は、略追い風を受けて、ベトナムの海岸線に沿って進む。船は、南支那海を更に南下する。予定通り航海するのを確認した船長は、黙って船橋から下りて行った。

「こうも暑いと、たまりませんねえ〜」交替して、船首を見張っている舵取りが言った。近くには、十隻の小さな漁船の姿が見えている。

船首の方向に、真っ黒い雲が覆い被さっているのを発見した助蔵は、「皆の集、そろそろ来ますぜ。報せますか?」と、末也を見て言った。末也は、軽く頷いて応える。

船首の方向から、雨が降りだす。スコールであった。報せを聞いて、当直を終えている乗組員達は、一斉に裸や褌姿で、上甲板へと飛び出す。降り注ぐ雨を、体に受けて子供のように燥ぎ回る。天の恵みである、これぞ正しく露天の風呂であった。水を満足に使えない船乗り達の、唯一の楽しみである。

歓迎してくれたスコールは、足早に走り去って行った。スコールの襲来を受けた金現丸は、先程の騒ぎも嘘のように、静かに帆走する。

「島が見えます。左舷前方!」と、マストに登っている見張りから、大きな声で報告を受けた末也は、「よし、このままあの島を左舷に見て進め」と、舵取りを見る。コンドル島を左舷に見て、海峡の中程を帆走して行く。

当直交替の航海士源四郎、舵取りの直吉達が、船橋に入って来た。

上甲板では、帆を操作する者達の交替が、行なわれている。引継ぎを済ませた源四郎は、船橋の中央に立った。直吉は、舵をしっかりと握っている。カマウ岬が、右舷前方に見えている。大きな夕日が、落ちて行く。舵を持つ直吉には、目の前に落ちる夕日を、仕事の邪魔になると、あまりの眩しさに、恨めしく思った。夕日から、時々目を逸らす。直吉には、進路変更前の緊張で体が、少し硬直しているのが自分でも分かった。

 船が、カマウ岬に並んだ。

「進路を西に、帆を風に立て〜い」源四郎の号令に、直吉は舵を面舵にした。全帆が、風を受けるように、動かされた。

船は、右舷に傾き、進路を西に変えて行く。「進路は、西!」と、直吉は、復唱した。

「よう、そうろう〜」「ようそうろう!」

 大きな大きな沈みゆく夕日に、直吉は、美しいと思った。あまりの美しさに、舵を持つ手が、少し震えている。

金現丸は、夕日に向かって、シャム湾を横切るように、帆走して行った。

 金現丸に、薄明の夜明けが来ていた。

当直を交替した航海士の伸滋は、注意深く見張りをしている。船首マストに登っている見張り役や、舵取り達もそうであった。

「未だ見えぬか? おい! 八兵衛!」伸滋は、船首マストに登っている見張り役の八兵衛に叫んだ。

「へい、未だ見えやせんが・・・」予定通りに進んでいるなら、そろそろ島が見えて来る筈である。伸滋は、航路の外へ流されてはいまいかと、苛立ちを見せていた。

「見えます。船首方向に、二つ・・・左舷にも見えています」と、船首マストの上から、八兵衛は、大きな声で叫んだ。

上甲板にいる帆を操船する者達の中から、「おお〜」と言う、歓声があがった。船首の方向には、目印の為に探していた右にプハーング島、左にサームイ島が、微かに見えている。待ちに待つマライに、到着である。

「船頭と船長を、起こしてくれ」との、伸滋に六助は、「へい」と言って、船橋から下りて行った。文左衛門と船長が、船橋に入って来るのは早かった。二人は、迫り来るサームイ島に目をやった。船長は、サームイ島を右舷に見て、マライ半島の海岸線に沿って北上するように告げた。舵取りは、復唱して応える。押し寄せる風に、帆が立つようにと、帆の向きが少し変えられて、マライ半島に沿って帆走する。三度帆の向きが変えられて、針路が、海岸線に平行になるように航海する。

「船長、見えて来ました。川です」スラートタニーを流れる川を上り、川を上陸して、陸路のジャングルを進みクラブリに至る。マライ半島を、略横切って、アンダマン海に出る、約百キロの横断道路である。

「よし、旗を揚げよ」と、船長。上に赤と下に白に、中央から別れている旗を、舵取りのひとりが、船橋の上に揚げた。その横断道路を横切る為の、水先案内人を呼ぶ、秘密の旗であった。

 金現丸は、水先案内人を呼ぶ旗を風になびかせながら、河口に船首を向けた。ゆっくりと、川の中へ入って行く。船は、上流へと進む。

川の右岸に、スラートタニーの町が見える。「帆を降ろせ〜い」と、船長は叫んだ。

全帆が降ろされて、船は、スピードを緩めた。「錨を降ろせ!」との、船長の号令に、錨が打たれた。船は川の略中央に停泊して、水先案内人を待った。川の流れは、それ程強くなく、緩やかな流れである。

小さな真四角の赤い旗をなびかせて、小船が上流から下がって来る。その後から、大きな船がついて来る。大きな船は、金現丸の上流で錨を打ち、小船は、此方に近付いて来た。水先案内人の乗っている船である。金現丸に横付けした。水先案内人は、縄梯子をよじ登って、乗船して来る。

船橋に揚げられていた水先人を呼ぶ旗は、舵取りに因って直ぐに降ろされる。上甲板に着いた水先案内人は、乗組員に案内されて、船橋へと上って行った。

「ようこそ」と、文左衛門は、船橋に入って来た水先案内人に声を掛けた。水先案内人は、にっこり微笑み右手を伸ばして握手を求めた。文左衛門は、それに応えて、握手を交わす。船長も、握手に応じた。

水先案内人は、船首の方に向かって、大きく横に手を振って合図をした。

金現丸の船首方向に、停泊している大きな船の船尾から、ロープが降ろされて、小船に積まれた。そのロープを、金現丸まで運んで来る。船首に着いた小船から金現丸に手を振って、ロープを取れの合図をする。金現丸の船首から小さなロープが小船に降ろされて、運んで来たロープを上甲板まで上げる。ロープは、金現丸の船首に、しっかりと括られた。

水先案内が連れて来た両船の錨が、上げられた。と同時に、一斉に櫓(オール)が、水面に出された。見惚れるくらいの、きびきびした行動である。

オールで漕ぐ船は、ロープに繋がれた金現丸を上流まで曳いて行く、曳船であった。曳船から出されているオールは、規則正しく漕ぐ動作を繰り返す。

金現丸は、曳船に引かれて、動き出した。ゆっくりと、上流へと上って行く。

「お茶でもどうですか?」と、船長は、舵取りが注してくれたお茶を、水先案内人に薦めた。水先案内人は、「有難う」と言って、美味そうに、お茶を啜る。何処へ行くのか? との質問に、船長は、竺土だと応える。

「うむ〜 竺土」と、頷き、お茶を啜る。

 <言葉が、分かっているんだろうか?> 船橋にある皆は一斉に、水先案内人を見た。水先案内人は、お茶を味わっている。異様な光景に映っていた。

船のスピードが増している。オールを漕ぐピッチを、あげているようである。威勢の良い掛け声を発しながら、漕いでいる金現丸は、曳船に曳かれて、川の右側を上流へと上って行った。

「オールを収め〜い!」と、曳船の船長が、大きな声で叫んだ。オールは、船内の中に向かって、真直ぐに収納された。交替のようである。側で待機していた漕ぎ手の人夫達と漕いでいた人夫達は、素早く交替する。「オールを、出せ〜い」との船長の号令に、オールは水面に出される。「漕げ〜い」

漕ぐリズムを合わせる号令に、又規則正しい動作を繰り返す。曳航された金現丸は、上流へ上流へと進んで行った。

 夜を撤して、オールは漕がれる。

途中で、曳船に小船が近付き、交替する人夫達が乗り込んで行く。乗り込んだ全員の漕ぎ手が、待っていた漕ぎ手と交替を終える。文左衛門と船長は、安心した様子で、水先案内人に任せている。二人は船橋にあって、曳いでいる姿を眺めた。規則正しくオールを漕ぐ人夫達の姿は、整然と並び異様な程に訓練されているように思えた。曳船の前方を照らすように灯りが、燈されている。金現丸は、曳船に全てを委ねているかのように、上流に向かって進む。

 川が、左右に別れている。曳船の船長は、右に進むように言った。船は、更に進んで行く。

 夜は明けて、既に昼を過ぎていた。

曳船のオールは、船内に収納されて、スピードが止まった。曳いていたのロープを解き、小船で陸上へと運ぶ。陸で待っていた象に繋いだ。それを確認した水先案内人は、船頭文左衛門と船長に、「航海の安全を祈る」と言って、握手を求めて来た。二人は、それに応じて、「有難う」と、お礼を言って、握手を交わした。

水先案内人は、舵取りに案内されて、船橋から下りて行った。

水先案内人が、小船に乗り移るのを確認した舵取りは、手を振って船橋に合図をする。象の悲鳴が、聞こえている。象の上には、象使いが乗っていて、大きな象の両耳を、両足で前に蹴った。進めの合図である。

金現丸は、今度は象に曳かれて、大きな丸太が横に置かれたなだらかな坂を、陸の上にと登り始めた。曳船の船橋と上甲板では、船長や人夫達が、手を振って金現丸を見送っている。大きな丸太の上を、音を発て乍ら金現丸は陸へと登って行った。

なだらかな坂を登り終えた所には、金現丸を乗せる為の台車が待っている。台の上には、荷台と同じ長さの丸太が置かれている。荷台の高さが坂と同じ面になるように、低い場所に台車はあった。

坂を登り終えた金現丸は、台車の上に乗った。台車から落ちないようにと台木とロープで固定される、台車が前に移動しないようにと、取り付けられてあった大きな四角い鉄の棒が、取り外された。象と金現丸とを繋いでいたロープを取り外し、台車に取り付けられた短めのロープを象に取り付けた。

さあ、出発である。「行くぞ!」と、像の両耳を、前に足で蹴って、象使いが叫んだ。

金現丸の乗った台車は、ゆっくりと動き出す。金現丸は、車の音を響かせ乍ら進んで行く。象の叫ぶ音が、辺りに響く。予備の為の象を一頭後ろに伴い、ジャングルを切り開いて作られたクラブリまでの残り約二十五キロの道程を、象に曳かれて、ゆっくりと進んで行った。

「海賊の奴ら、まさか、マライを横切っているとは、夢にも思わないでしょうねえ〜」助蔵は、船橋で曳いて行く象を、じっと眺めている文左衛門に言った。

「横断道路があるとは、海賊達は気が付くまいよ。一泡蒸かせたような、思いぞ」

「奴らの間抜けな顔が、目に浮かびまっせ」助蔵は、肩を上下に揺すって、大きく笑った。海賊の顔も知らぬ大笑いをしている助蔵に、文左衛門は可笑しくなって一緒に笑った。全員の当直が解かれている船内では、乗組員達は、のんびりと過ごしている。時々船は、上下に揺れる。

象使いは、台車が沼地に填まらないように象の大きな右耳を右に押して、左へと避け、左の耳を押して、右へ避けて、「がたがた」と言う音を響かせて、進んで行った。

 途中で待っていた象使いと伴っていた象の交替を行ない、更にジャングルの中を突き進む。

切り開かれたジャングルの道には、両側からゴムの木などの大木の枝が、覆い被さるように行く手を塞ぐ。付き添う男達は大きな剣を手に、切り払い乍ら進んで行く。

 ジャングルを抜けて、前に広がる草原に出た。広々とした台地の向こうに、町並みが見えている。クラブリの町であった。

「着いたぞ〜」と、男が、台車の上の金現丸に向かって叫んだ。騒めきが、船内から起こった。船橋や上甲板から、乗組員達は、見えているクラブリの町を眺める。

 約百キロの道程を、走破した金現丸の船橋から、歓声が起こった。

 金現丸は、象に曳かれて、クラブリの港を目指して進んで行った。

 船内に、出帆準備の鐘の音が響いた。

乗組員達は、所定の位置について、船長の号令を待った。

前方には、海が見えている。港に着いた象からはロープが外される。海上で待っていた曳船からのロープと、台車のロープとを繋ぎ合わせて、曳航する準備に入った。

曳船は、ゆっくりとロープを曳いて、所定の位置に台車を運ぶ。海の中へと続く所定のなだらかな坂に着くと、人夫達は移動しないようにと台車を固定する。更に、金現丸が移動しないようにと台車に縛ってあったロープを、素早く解いた。

 台車と曳船を繋いでいたロープを外して、金現丸へと括り直して曳船とを繋ぐ。金現丸の乗組員は、括ったぞの合図を曳船に出して知らせる。

 曳船から手を振って、了解の合図が出る。曳船は、ゆっくりとロープを曳いた。

 大きな丸太は、転げるように金現丸を動かし台車から離れて、なだらかな坂の上に降りる。曳船は、更に金現丸を引っ張った。

 なだらかな坂に対して横に敷いてある大きな丸太の上を滑るように、金現丸は、勢い良く海の中へと入って行った。

曳船は、金現丸を曳き岸から遠く離す。

曳船から、ロープを外せの合図が出た。金現丸の船首上甲板に、括ってあったロープが放された。乗組員は、手を振って合図をする。曳船からも、手を振って、分かったの合図を出している。曳船の船橋にいる船長が、手を振って了解の合図を出した。

金現丸の乗組員達は、曳船に「また、会おう」と、別れの手を振る。曳船からも別れの手を振っている。文左衛門、船長も手を振ってそれに応えた。

「銅鑼を鳴らせ〜い」と、船長の号令に、船内に銅鑼の音が、響き渡った。乗組員達は上甲板にあって、出帆準備は、既に出来ている。

「帆を揚げ〜い!」と、船長は、上甲板に向かって、大きな声で叫んだ。復唱の声と共に全帆が、一斉に揚がった。

「針路は、西に」との船長に、「針路は西」と、舵取りが復唱する。帆は、風に立てられて大きく膨らみ、ゆっくりと船首を西に向けた。

「針路は、西!」と、再度、舵取りは復唱して船長に報告する。

マライの横断道路を無事に横切った金現丸は、全帆に風を一杯に受け、スピードを増して、アンダマン海を西に、帆走して行った。 

アンダマン海を西へ西へと横切り、十度海峡を通過して、ベンガル湾を更に、西へと横切る。夕日に船首を向けて、航海する。真っ赤に海を染めて、目の前に迫り来る押し潰される程の、大きな夕日であった。辛くて、気の遠くなる程の、長い長い航海が又始まった。金現丸は、落ちゆく夕日の彼方に待っている竺土を目指して、帆走して行った。

 

       七

ベンガル湾を、西へと帆走して来た金現丸は、見張りを増やして、明けてゆく船首の方向に陸地を探した。船橋には、緊張が走っている。

「未だ見えんのか?」と、船長は、呟く。

「船長! 見えます。陸地が見えます」船首マストに登っている見張り役が、大きな声で叫んだ。船長達は、見張り役が指を差す方向に陸地を探した。

「見えんぞ!」「いえ、竺土です。見えています」と、船長に、向かって報告する。「分かった。うん、あそこか・・・よし、このまま進もう」船は、陸地に向けて突っ込んでいく。陸地が、次第に目の前に迫って来る。頃合を見て船長は、「取り舵いっぱ〜い!帆を風に立て〜い!」と、陸地を避けるように、号令した。帆の向きが一斉に変えられる。舵取りは、迫って来る陸地を上手くかわして、南へと船は大きくターンする。

船長は、海岸線を沿って、南下するように言った。舵取りは、それに応えて復唱する。

「針路は、南! 海岸線に沿っています」と、舵取りの助蔵は現在の進路を報告する。

「よし、このまま進んでくれ。岬が見えたら報せてくれ。末也、後は頼んだぞ」と、航海士の末也に後を任せて、船長は、さっさと船橋から下りて行った。

金現丸は、海岸線に沿って、竺土とスリランカとに挟まれたポーク海峡を通過する。マナール湾を更に南下して、コモリン岬へと向かう。漁船の多いこの地域は、航海士達の気の使う所であった。

「舵を交替します」と言って、次の舵取りは、舵を握っている助蔵と交替する。

「時化て来ましたねえ〜」マナール湾に入って、急に時化だしている海に、助蔵は、不吉な予感を覚えていた。

「何時ものことだろうよ」と、航海士の末也は、それ程、気にもしない様子である。

南下するに従って、海はうねりを伴うようになってきた。うねる波が、船首にぶつかって、水飛沫を上甲板に上げる。帆を操作する上甲板の乗組員達は、縄でしっかりと体を縛ると、上甲板やマストに括り付けた。

 当直交替の為に、航海士の源四郎に舵取りの直吉達が、船橋に入って来た。

「時化て来たのお〜」と、源四郎。

帆を操作する乗組員達も、当直を交替したようである。引継ぎを済ませた航海士の末也と舵取りの助蔵達は当直を交替して、船橋から下りて行った。

船は、うねる波を受けて、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)を繰り返す。机の上の品物が、ローリングの為に音を発てて床に落ちた。直吉は慌てて、落ちた品物を拾い、落ちないようにと固定する。

 迫る大きな波が、船首を叩く。『どーん』と言う音がした。直吉は、体が移動しないようにと、しっかりと船橋を掴んでいる。

「おい、ボンベイまで辿り着けるかのお〜 どこかに、避難した方が良さそうじゃ」源四郎は、溜め息をついて言った。

「おお〜 大丈夫でやんしょうかねえ?」直吉も心配になってきていた。

右舷前方に、岬が見えている。源四郎は、船長を呼んで来るように直吉に言った。 

船長も、時化る海が気になっていた。船橋に入って来るのは、何時もより早かった。船頭の文左衛門も、時化が気になっていたのか、船橋へ入って来た。

船は、又大きく傾く。「船長、どこかに避難しましょうか?」源四郎は、船長を見た。

「この辺には、港はない。コーチンまで辿り着けるか?」と、船長。

「どうします? 船頭」との船長に、文左衛門は、「うむ〜」と、唸って暫く考え込む。<何処に避難した方が良いのか・・・>

「コーチンに、避難しよう」南下して、最も近いスリランカのコロンボに向かえば、時化の餌食になる。文左衛門は考えた末に、コモリン岬を躱って、コーチンに避難するように告げた。

 雨が降りだしていた。右舷船首には、コモリン岬が見えている。ローリングやピッチングを繰り返して、コモリン岬を目指した。

 雨脚や風が、一段と強くなって行く。帆は、半分だけに降ろされて、船は横波を受けながら帆走する。

船は、大きく傾く。コモリン岬に並んだ。「ゆっくりと、面舵へ・・・帆を風に立て〜い」との号令は、雨や風の為に、上甲板の乗組員達までは届かない。鐘が鳴らされた。 船は、ゆっくりと、北へ針路を変える。

船は、横波を受けて、大きく傾いた。船橋にいた舵取りが、左舷側から右舷側へと、弾き飛ばされる。船は、徐々に傾きを直して、真直ぐになっていく。

何時もの時化とは様子が違う。文左衛門と船長は、嵐の襲来だと直感した。「船長、台風じゃな・・・」と、文左衛門。「そうですね・・・」

「ここいらには、錨を打つ所もあるまい」「ええ〜 あったとしても、もう遅いです」 

台風は、もう近くまで来ている。船長は、肩を落とした。帆の数が減って、船はスピードを落としている。横波を受けて、大きく傾く。船首に大きな波を受けて、波が上甲板に上がっている。「ドオン」と、波が船首を叩く。その度に、船は縦に大きく揺れる。直吉達は、不安を隠しきれなかった。

「逃げられる所まで、逃げてみよう」台風の針路の予想がつかない文左衛門は、覚悟を決めて言った。

コモリン岬を躱りマラバル海岸に沿って、金現丸は、台風から逃げるように帆走して行った。

船首からの迫り来る大波で、船首が宙に浮き、そして水面に落ちて船底を叩く。地震を思わせるような、振動が船に伝わっている。

針路が変わり横波を受けて、船は大きく傾く。ローリングとピッチングを繰り返す金現丸は、波と風に耐えている。コーチンまで、後僅か・・・これが限界だと考えた船長は、「鐘を鳴らせ!」と、怒鳴った。

上甲板に聞こえるようにと、船橋の外に出て、舵取りのひとりが、鐘を鳴らす。横波を受けて、船は大きく傾く。しがみ付いた舵取りに、大波が襲う。必死にしがみ付く。波の収まる頃合を見て、急いで船橋へと入った。

鐘の音を聞いて、上甲板では、全帆を一斉に降ろそうとする。大きな波が、乗組員達を襲う。彼らは流されないようにと、マストやロープにしっかりとしがみ付く。やっとのことで、残っていた全帆が、降ろされた。

風任せ、波任せの、漂う航海に入った。大波が、金現丸を飲み込む。その度に、上甲板の帆を操っていた乗組員達は、必死にしがみ付く。船は、ローリングとピッチングで揉みくちゃになって行った。

船首から大波を受けて、マストが一本折れた。船首が宙に浮き、落ちて行く。「ドオン」と、波が船底を叩く。上甲板の、乗組員のひとりが、海に投げ出される。横波を受けて、大きく傾く。大きな波が、又襲って来る。金現丸は、風と波の思いのままに、餌食になっていた。

船橋に、大波が襲い掛かる。船は、大きく向きを変えた。吹き付ける強風と、荒れ狂う海。再度の、大波の襲撃に船橋の屋根が、吹き飛んだ。

<もう駄目だ!> 文左衛門は、心に叫んだ。船橋にいた舵取りのひとりが、「わあっ〜」と言って、波に浚われて行く。

全てのマストが、折れている。船橋から、船内に海水が流れ込んで行く。当直を終えて、船内で休んでいた乗組員達の部屋にも、波は容赦なく襲う。

「うわ〜」と、船内の乗組員達が、船の外へと波に流されて行く。

 上甲板でも、ひとり又ひとりと、波に浚われて行く。波と戦う術は、もう乗組員達には無かった。

船橋も、水浸しであった。大波が、又船橋を襲う。しっかりとしがみ付いていた文左衛門、船長、源四郎、直吉達は、押し寄せて来る波に因って、とうとう海に投げ出されてしまった。船は、一段と強い大波の一撃を受けて大破してしまった。

 眩しい陽射しが、文左衛門の顔に照りつける。小鳥の囀りが聞こえている。

子供達の声に、文左衛門は目を開けた。

 俯せに横たわる文左衛門の目には、白い砂が飛び込んで来た。<ここは、どこだろう?どうして、ここに居るんだろう?>

文左衛門の脳裏に、嵐に遭った時のことが甦ってきた。<そうだ、台風に・・・難破したんだ。皆は、どうしたんだろう?>文左衛門は、ゆっくりと立ち上がった。身体の節々が痛い。何所かで、ぶつけたようだ。自分の身体ではない位に、痛かった。

文左衛門は立ち上がると、痛みを堪えて皆の姿を探した。

砂浜に俯せに横たわる男の姿に、「直吉、直吉じゃないか」と、<生きていてくれ!>との願いを込めて、近付いて行った。

 直吉を抱き抱えた文左衛門は、「直吉、おい、直吉」と言って、体を揺すった。

「うっ、う〜」と、直吉は、文左衛門の声で目を開けた。「直吉、大丈夫か?」

「ああ〜 船頭、どうしたんです。ここは、一体どこなんです?」と、辺りを見回す。

「直吉、良いから、ここで休んでろ」と言って、文左衛門は他に誰か居ないか探しに行った。

 小波の打ち寄せる砂浜に、男が、仰向けになっている。その見覚えのある男の足を、小波は攫う。助蔵である。

「ワラジ、おい、ワラジ」と言って、文左衛門は、引き寄せた助蔵の頬を、軽く叩いた。「うっ、あっ痛いたたた・・・船頭。船頭ですかい。・・・助かったんですね? おいら、助かったんですね」「そうだ、助かったんだぞ」と言って、助蔵を引きずって、乾いた砂浜に上げる。

 助蔵も、体の節々が痛かったが、痛みを堪えてゆっくりと起き上がった。

「皆は、どうしたんですかい?」

「今から、探すとこじゃよ」と、文左衛門。「探しやしょう、船頭」と言って、助蔵も一緒になって、砂浜で遊ぶ子供達や、男女の二人連れを気にすることもなく探し始めた。

 波間には、難破した金現丸の木材が、漂っている。前から男が、倒れかかり乍ら歩いて来る。航海士の源四郎であった。

「お〜い、ワラジ、皆は、どうした?」助蔵の姿に気が付いた源四郎は、大きな声で聞いた。助蔵は、近付いて行く。

「皆は、どうした?」と、再度聞いた源四郎に、「へい、今から探す所で・・・船頭と直吉は、無事でやすよ」

「他には?」「え・・・」「そうか・・・」源四郎も、捜索に加わった。

波間に男が、木材を抱いて漂っている。助蔵は、泳いで近づいた。善兵衛である。気絶し乍らも、しっかりと木材を抱いている善兵衛の手から、そっと放すと、助蔵は、髪の毛を掴んで泳いだ。砂浜に上げて、「善兵衛、善兵衛」と言って、善兵衛の頬を軽く叩く。善兵衛は、深い息を吐いた。

「ワラジ、うっむ〜、ワラジか・・・凄かったのお〜 皆はどうした?」と、善兵衛。

「今、手分けして探しとる」

「善兵衛、無事だったか」との文左衛門に、「あっ船頭、直吉も・・・」と、善兵衛は、近づいて来た二人を、眩しそうに見上げた。

「他には居ないのか?・・・・・探そう」文左衛門は、言い終わると、海を眺めた。金現丸の残骸が、至る所に浮いている。台風の凄さが、人目で判った。

昨日の嵐は、嘘のように静まり、乗組員達を飲み込んだとは信じ難い青く美しい海が、そこにあった。文左衛門には、小鳥の囀りだけが、虚しく聞こえている。助かった文左衛門、源四郎、直吉、助蔵、善兵衛は、乗組員達を探した。

 乗組員の姿は、どこにも見えなかった。皆は、肩を落として塞ぎ込んだ。

<たった、これだけか?>あれだけいた乗組員達である。

<どこかに居る>と信じたい心境であった。 

あの時の吹き荒れた風さえ今は無い。皆は、陽射しを受けて輝く海を恨めしく、じっと眺めた。

海に向かって目を瞑り、手を合わせた。

友の顔が目に浮かぶ。酒を飲み交わし、楽しく過ごした船内生活が、頭の中を巡っては消えて行く。皆は、思わず涙が零れていた。

それは、1528年(享祿元年)陰暦四月八日のことであった。

疲れ果てた顔で、ぼんやりと海を眺めている文左衛門達の前に、コダールが近付いて来た。

「難破しなすったんですねえ〜 どこから来なすったんで?」と、話し掛ける。

服は破れ、裸足の文左衛門達は、意味の解らない言葉に、首を傾げる。

「これから、何処へ行くのですか? 行く所は、あるのですか? 私は、コダールと言います。良かったら、私の家に来ませんか?」

「コダール?・・・文左衛門です」

「ブンザ・・・エモン?」と、コダール。

「近くに寺院は、ありますか?」と言って、文左衛門は、目を瞑り手を合わせた。

「ああ〜 シナゴーグね。ブンザ、付いて来なさい。さあ〜」と、コダールは、手招きをして、歩きだした。

「船頭、分かったんですかい? 何処へ連れて行く気でやんすかねえ〜」と、助蔵。

皆は、訳の解らぬまま、コダールの後を付いて行った。砂浜から陸へ上がり、町並みへと歩く。近くに置いてあった馬車の荷台に、皆は乗り込んだ。コダールは、馬に鞭を浴びせた。町に向かって、馬は走りだす。コダールの連れて行く所に着くまでは、かなりの距離であったが、直ぐに着いた。そこは、寺院であった。

 真夏のような陽射しに照らされて、輝く寺院に、皆は溜め息をついた。

老人コダールに案内されるままに、文左衛門達は、中へと入った。どうも様子が、おかしい。集まっている群衆はの着ている物や祈る姿が、異様な感じに見える。文左衛門達は圧倒されて、その場に立ち尽くした。そこは、ユダヤ教会であった。

文左衛門は、コダールに手を合わせて、目を瞑って見せた。首を傾げるコダールに文左衛門は再度、手を合わせて言っている意味を解らせようとした。

少し考えていたが、コダールは、文左衛門の言いたいことの意味を、やっと理解したようである。こっちへ来いと、手招きをするコダールである。

ユダヤ教会を後に、文左衛門達は再び荷馬車の荷台に乗った。荷馬車に揺られ着いた所は、探していた仏閣であった。文左衛門は、笑顔でコダールに頷いコダールも、笑顔で頷いて応える。人の出入りは激しく、文左衛門達はコダールをそこに待たせて、引き込まれるように中へと入って行った。

仏閣に入った文左衛門達は、金色に輝く仏像の前で、目を瞑り手を合わせて祈った。乗組員達の顔を、ひとりずつ思い浮べて、彼らの供養にと、心から祈る文左衛門達であった。

仏閣を出て、馬の手綱を手にして待っていてくれたコダールの、馬車の荷台に乗り込んだ。馬車に揺られる文左衛門達には、長く白い顎髭を生やした老人コダールとの巡り合いは、不思議に思えていた。少し走って、馬車は止まった。案内されて着いた所は、コダールの家であった。

 居間に通された文左衛門達は、椅子に腰掛けた。

「コダール、ここは、何処なのですか?」文左衛門は頭の上で、部屋の中を右手で一周回した後、足元の床を指して言った。

向かい合わせに座っているコダールは、意味を理解したらしく、「ここは、コーチンだ」と、応える。コーチンの港の近くに、ジュータウンと呼ばれている小さな町がある。案内されて入ったのは、そのジュータウンにある質素な家であった。竺土(インド)の他の町並みとは、少し異にしているユダヤ人達の住む町である。

 若い女が、お茶を運んで来る。女は、お茶のセットを、テーブルの上に置いた。

「ハーパ、こちらは、ブンザ、そして、こちらが・・・・・」と、隣に座る源四郎を、右手の手の平を向けて指した。源四郎は、察して、源四郎だと自分を紹介する。次に、「直吉、善兵衛、ワラジ」と、紹介していった。「ブンザ、ゲンシロ、う〜 ナオ、ゼンベ、ワラジ、宜しく、私、ハーパよ」ハーパは、一人ずつ確認するように、名前を言って、自分を紹介した。

「ハーパ、宜しく」と、文左衛門。「宜しくね」と、源四郎達も、ハーパに微笑んだ。ハーパも不思議な身形の突然の来客の笑顔に、微笑んで応えた。

ハーパは、カップにお茶を注ぐ。紅茶の甘い香りがテーブルの上を漂い、鼻を突く。その香りは、大切な友を失い心身共に疲れ果てている文左衛門達の気持ちを、落ち着かせる。

 注ぎ終えた紅茶に、白いミルクを混ぜる。紅茶の色が、変わった。

「さあ〜 どうぞ」と、ハーパ。皆は、珍しいミルクティーに、舌鼓を打った。コダールは、ミルクティーに赤い胡椒を混ぜる。胡椒を入れるか?身振りでと助蔵が尋ねた。コダールは、美味しいと答える。胡椒を入れて飲むか?とのコダールに、助蔵は真似て、胡椒を混ぜて飲んで見せる。

「うい〜っ! ああっ! こここりゃあ〜 うわあっ、辛いぜ!」と、飛び上がるような声に、直吉は、こいつを入れたら大変だと、胡椒の瓶をテーブルの上に置いた。

瓶の中には、胡椒の他、クローブ、シナモン、ジンジャーが混ぜてある。インドでは、ミルクティーに入れて飲む習慣があった。

助蔵の声に、皆は笑った。「そんなに、辛いのかい?」と、直吉。「不味いぜよ。直吉」と渋い顔をする助蔵である。

「あら、美味しいのに・・・おかしいわね」不思議な顔をするハーパに、「飲めねえ・・・あっしは、・・・」と、助蔵。

<勧めても駄目みたいね>「それじゃ、ゆっくりね」と言って、ハーパは、居間から出て行った。

「食事は? 腹は減ってないのか?」コダールは、何かを指で掴むような仕草をして、自分の口の中へと入れる。

「ああ〜 飯・・・飯ね・・・結構です」と、文左衛門は首を横に振り、右手を前に出して制するようにした。部下達を失った文左衛門は、腹は減っていたが、とても食べられるような食欲はなかった。お茶を飲むのが、やっとであった。皆も、同じである。気落ちして、とても、食べられる状態ではなかった。

「そうか・・・食べたくない・・・」コダールは、皆の気持ちを察して頷いた。彼らの気持ちがコダールには、痛いほど良く解っていた。

皆はお茶を御馳走になり、風呂に入った。風呂から上がった皆の前には、コダールの息子の衣類が出され、サイズが合わない者もいたが、皆は、それを有り難く羽織った。

「コダール、色々有難う」と、深く頭を下げてお礼を言った文左衛門は、「行くぞ」と、顎を外に向けて、皆に合図をする。

家から出て行こうとした文左衛門達を、コダールは、「疲れているだろう? まあ〜 ゆっくりしなさい。行く当てもないんじゃろう?」と、止める。

ハーパもコダールに頷いて、止めた。「それじゃ、お世話になるとするか。皆、どうじゃ」文左衛門は、確認して言った。船頭に従うとの皆の意見である。

文左衛門達は、先程と同じように椅子に掛けて、ハーパの出してくれた緑茶を、御馳走になった。懐かしい薩摩の香りと味がする。目頭の熱くなる文左衛門であった。

暫くすると、コダールの息子が帰って来た。文左衛門達の前に現われに息子のラビを、コダールは紹介した。笑顔で応えるラビに好意を抱き、和やかな雰囲気になっていった。ハーパは、ラビの嫁であると、そこで初めて分かる文左衛門達であった。

ラビは、インドで生産される胡椒を、一手に取り扱う、胡椒商人である。ユダヤの商人達が、インドに移り住んでからは、インドの胡椒は、コーチンのユダヤの商人達に因って取り扱われるようになっている。その為にコーチンの港は、ポルトガルやオランダ等の南蛮船が立ち寄る、インドでは最も重要なる港となっていた。

「ブンザ、それなら、港で胡椒の積み出しを手伝ったらどうだい? あそこに居れば、色んな船と接触できる。ジャポンに行く船だって見つかるかも知れないよ」薩摩に帰る船はないかと、身振り手振りで話す文左衛門の言っている意味が分かったラビは、コーチンの港で、人夫として働き、帰る時期を待つように薦めた。

「皆どうする? 暫らく、港で働くか?」

「へい、おいらは、良いですぜ。直吉は?」助蔵は文左衛門に軽く頷き、直吉を見た。皆の返事は、「港で働きながら、薩摩に行く船を探そう。時期を待とう」と、文左衛門に賛成であった。コダールの勧めもあって、小さくはあった家の離れで、生活することとなった。

次の日、早速、ラビに連れられて、港にある荷役人夫小屋へと向かった。人夫小屋に着いたラビは、文左衛門達を、頭領のインド人、ガンジイに紹介し、事のなりを話した。ガンジイは、文左衛門達が人夫として、そこで暫らく働くことを快く承知してくれた。

「ブンザ、直ぐに、仕事に掛かってくれ」

「岩爺、今から始めるのかい?」ターバンを頭に巻き、髭面のガンジイは、頭に岩を乗せた爺さんのように、文左衛門には思える。ガンジイを岩爺と、呼んでいた。

「そうだ、人夫達と一緒に船まで行ってくれ」

「分かった」と言って、文左衛門は、頷き、「ラビ、有難う」と、お礼を言う。ラビは、にっこり微笑んで握手をすると、左腕を「ぽんぽん」と二回叩いて激励した。

人夫達の後を付いて行った所は、オランダ船であった。人夫達は、一列に或いは、二列に並んで、手渡しで倉庫から、船倉の中へと胡椒を運ぶ。

「列に入れ」と、人夫のひとりが、手を招く。文左衛門達は、適当に列の中へ入って、胡椒の入った袋を手渡しする。積み荷は、順調に進んで行った。

笛が鳴った。休息の時間である。人夫達は、一斉に列を崩した。お茶を飲む者、寝転がる者と、思い思いに休息を取る。文左衛門達は、遠慮気味に休息を取った。

上甲板に、船員が立っている。<今だ、聞きに行こう>「行って来る」助蔵は、「船頭、いますぜ。聞いて来ますから・・・」と、顎を船の方にしゃくった。

「大丈夫かい? ワラジ」と、善兵衛。

「任せろって」と微笑んで、板の梯子を、オランダ船へと乗船して行った。助蔵だけじゃ覚束ないと、源四郎と直吉も後を追った。

「やあ、やあ、兄さん」と、手を上げて近付く。何時ものインド人とは違う、東洋の顔に、乗組員は不思議そうに見詰めている。

「兄さん、何処から来なすったんで? 南蛮から来なすったんで? おいら、ワラジ」

ラビの挨拶を見ていた助蔵は手慣れた様子で、ラビに真似て握手を求めた。乗組員は、笑顔で握手に応じる。源四郎は、黙って見守っている。

 乗組員には、助蔵の言っていることが、理解できないようである。首を傾げた。

「兄さん、これから何処へ行きなすんで?」「オランダ」と、乗組員は応えた。

「オランダ? おい、オランダだってよ。薩摩には、行かないのかい? 薩摩、さつま」「サツマ? それは、誰だい?」

「ワラジ、薩摩は、誰かって聞いているぜ」「本当ですかい?」と、源四郎を見た。

「薩摩なんて、知らんようじゃ。知らないとこへ行く訳ないわな。諦めよう」

「なあ〜る程、そうでやんすねえ〜 ジャポン、ジャポン」と、助蔵は乗組員を見る。乗組員は、首を横に振る。

「兄さん、そいじゃ、またな」源四郎の言うように、諦めた方が良さそうだ。助蔵は、もう用はないと、船を下りようとした。乗組員は、そんな助蔵を止めようとする。「ちょっと待っていろ」と言っているようである。助蔵達は、暫らく待った。

 乗組員は、酒の入っている瓶を持って来て、助蔵に手渡した。

「おいらに、あげるってんで?」乗組員は、微笑んで、頷いている。

「有難う、有難うよ。喜んで頂いときますよ」助蔵は、頭をぺこぺこ下げて受け取った。助蔵達は、乗組員に「有難うな。それじゃ船員さん」と、手を振ると、手を振って応える船員を後に、船を下りて行った。

「船頭、薩摩には、行かないようですぜ。酒を貰って来やしたよ、今夜一杯いきましょ」いとも簡単に、酒を貰って来た助蔵に、文左衛門は「助蔵、厚かましいのおっ」と、諦めにも似た驚きを見せた。

荷役開始の笛が鳴った。文左衛門達は、又荷役の列に入って、手渡しで胡椒の入っている袋を船倉まで運ぶ。荷役作業は、夕暮れまで続いた。作業を終えた文左衛門達は、コダールに案内してもらった昨日の仏閣に出掛けた。中に入り、金色に輝く仏像に、手を合わせて祈った。

 次の日も、次の日も、荷役作業に出掛け、荷役作業が終わると仏像に足を運び手を合わせる。飽きることもなく、それは毎日続いていた。

晴れた日にも係わらず、積み荷の胡椒が、港に届かないとのことで、荷役作業は休みであった。文左衛門達は、久し振りの休みを、コダールの家の離れで過ごしていた。

退屈そうな文左衛門達を見兼ねてハーパが、お茶を飲まないか?と、皆を呼びに来た。ハーパの出してくれるお茶は、美味しいと、皆は喜んで、お茶に呼ばれる。居間には、コダールが椅子に腰掛けている。こっちに来て座れと、手招きで合図をするコダールである。皆は、コダールに誘われるまま椅子に腰掛けた。

「ブンザ、荷が届かないようじゃのお〜」コダールも、荷が届かない為の積み荷の遅れを、気にしていた。文左衛門達はインド語を、ある程度理解できるようになっている。

「コーチンだけでは、ないでしょう荷の遅れは。高値になるんじゃないですかね?」と、文左衛門。「うむ〜 恐らくな・・・」コダールは、軽く頷く。

「困った、と言えば良いのでしょうか? 良かった、と言えば良いのでしょうか?」

「ブンザ、良く解っているのお〜 私らは、安くで買って、高い時に売っている。しかしのお〜 それ程高い利鞘を稼ごうとは、これっぽっちも思ってはおらん。高くなく安くなく。庶民の口に入るようにと、やっておる」「はあ〜 それは、十分解っておりますよ」

「インディアは、わしにとっては、第二の故郷のようなものでのお〜」

 ハーパが、お茶を運んで来た。カップに、紅茶を注す音がする。甘い香りが漂って、和やかな雰囲気を作る。

 ハーパの入れてくれたミルクティーを、皆は黙って、味わうように飲んだ。

「私らは、旅する船乗りのようなものじゃ。季節に追われる渡り鳥じゃよ。吹雪を避け、やっと、この地で餌にありつけて、大地にしっかりと足を踏張って生きている。しかし、又何時、波の上に漂うやも知れぬ」

 源四郎達は、真面目な話に、邪魔をしてはいけないと、黙って聞いている。

「コダール、楽しければ、漂っても良いじゃないですか?その地に、根を張って生きなければならない。漂いたくても、漂えない人達だって居るのですよ。歓迎されるなら、何処へだって行ける筈ですが?」

「うむ〜 歓迎してくれるかのお〜」

「歓迎しますよ。大衆だったら、喜んで歓迎する筈です。私利私欲もなく、皆と、一緒にやって行こうとするのが、庶民で、私らのような凡人ですよ。袖の下を貰い、権力を傘に支配しようとする奴らとは、違いますよ」

ハーパが、また部屋に入って来た。コダールに何か言っている。彼らの話す言葉は、文左衛門達には理解できないヘブライ語である。ハーパは、コダールに頷いて、また部屋から出て行った。

「ブンザ、ハーパの焼いてくれたチャパティを食べてみないか? 美味いぞ」

<ハーパが話していたのは、食事のことであったのか・・・>「ええ〜 喜んで、頂きます」

「今、ハーパが持って来る」と、食堂の方へ目をやるコダールである。

 ハーパは、チャパティと魚料理を持って来て、テーブルの上に置いていく。お皿の上には、美味そうな魚料理が乗っている。

「これが、チャパティですか? コダール」文左衛門は、薄っぺらなパンにも似た食物を指した。コダールは、「そうだ」と言って、頷く。

「さあ〜 食べてみて」と、コダールは、ハーパの手料理を薦めた。

「はい、頂きます」 ハーパは、美味そうに食べる皆を見て嬉しく、そして仕草は可笑しくて、くすっと笑った。

「ハーパ、美味いなあ〜 チャパティも美味いが、魚も美味いなあ」と、源四郎。

「ハーパ、薩摩に行かないかい? 薩摩に連れて帰りたいくらいの美味さじゃよ」と、直吉は魚を頬張りながら言った。隣に座るハーパは、娘のような恥じらいを見せている。

「薩摩に、連れて帰りたいくらいの美味さとはのお〜 こんな美味さか? ハーパは、旦那がいるんでやんしょ? 駄目じゃ、直吉よ」助蔵は、恥じらうハーパを見て言った。

「うん、分かっとる」と、直吉。

 手に持つフォークが、覚束ない。チャパティを両手で千切り、口元へと運ぶ。

<箸の方が、良いのお〜 どうも、尖った櫛みたいな箸では、掴めねえ〜> 手で掴む方が、まだ良いと助蔵は溜め息をついた。

ハーパを囲む食事は、実に美味い。妻お豊の味付けとは、程遠いが、お豊の作る手料理も、ハーパに負けないくらい美味い。文左衛門は、我が家の食事を、思い出していた。坊の浦の様子が、三味線の音に乗って甦ってくる。<今頃どうしているかなあ〜 元気でやっているであろうか>じっと耐えて、文左衛門の帰りを待っていてくれるであろう妻の、心中が痛い程よく解った。

「きょうの服も、良く似合っているなあ〜」善兵衛は、ハーパを見て言った。

ぼんやりと妻お豊のことを思っていた文左衛門は、善兵衛の言葉に、我に戻ってハーパを見た。ユダヤの衣装を、身に纏っていたハーパは、今日はインドの衣装サリーで、身を包んでいる。そう云われれば、<ハーパは、美しい>

「ゼンベ、あまり誉めないで。これは、インド人のお友達から、お誕生日にと貰った、大切なものなのよ」と、ハーパは微笑む。

「そんな大切な服を・・・」と、善兵衛は、恐縮して言葉にならない。

「ううん、サリーは、良く着ているのよ。ただ、ゼンベ達はとって大切なお友達だから、お友達から貰った大切なサリーを着たかったの」

「おいら達ゃあ〜 そんなに大切な友達かい?ハーパ、こんな、おいらだぜ」と、助蔵は、胸に手を充てて卑下した言い方をした。

「ワラジ、あなた、とても温かいよ。私の心まで温かくなるわ。ねえ〜 コダール」

「うっん、皆良い人達じゃ、ハーパが、一番大切にしていた服を、皆の前で着てみたいと云う気持ちは、良く分かるよ」と、ハーパに微笑んだ。

 ハーパは、コダールに微笑んで応える。

<こんなに、おいら達のことを大切に思ってもらえるなんて> 皆は有り難いと思った。

ハーパの作った手料理は殊の外美味く、筒が無く、そして楽しく進んで行った。真心溢れるハーパの、接遇であった。

文左衛門達は、コダールとハーパに食事のお礼を言って、仏閣へと向かった。

家から歩いて直ぐの所にある。並木道を通り大きな通りへと出る。行き交う人は、文左衛門達のことを知り、微笑を返すようになっていた。毎日通う道程は、近所の人達と触れ合える、唯一の道でもあった。

仏閣に着いた文左衛門達は、中へと入って行った。中は、何時ものように線香の煙がたちこめ、お詣りする人達は、仏像の前で手を合わす。高貴な方であろうか?目立つ御夫人達の姿も、そこにはあった。文左衛門達はその後ろで、金色に輝く仏像に手を合わせ目を瞑り、深く頭を下げて、遭難した乗組員達のことを祈った。

お祈りを済ませると、文左衛門達は揃って外へと歩きだした。

「毎日、御出でのようじゃが?何か仔細がおありのようですね?良かったら、お聞かせ願えないでしょうか?」と、近付いて来た僧侶が、手を合わせて話し掛ける。文左衛門達は、驚いた顔を見せた。

薩摩で見る僧侶達は、黒と白の衣装を纏っている。ところが、黄色い派手な長い布で、身を包んでいる。派手な色の驚きが重なって、暫らくは、言葉が出なかった。そんな異様な様子を、高貴な御夫人達三人は、立ち止まって見ている。

「私らは、竺土のボンベイを目指して、航海しておりましたが、嵐に遭いコーチンの近くで、難破してしまいました。多くの乗組員達を亡くして、こうやって毎日、彼らの供養の為にお詣りしているので御座います」と、文左衛門は説明した。

「そうでしたか、大変な目に、お遇いになられたのですねえ〜」と言って、僧侶は、手を合わして目を瞑った。

「それじゃ、私らは、急ぎますので」文左衛門達は、僧侶に頭を下げると仏閣から外へ出た。毎日お詣りしていたその仏閣は、ヒンズー教の寺院であった。

文左衛門達はヒンズー教ではなかったが、宗教に関係なく、遭難した乗組員達は仏となってくれているであろうとの願いからである。

 先程の高貴な御夫人が、話し掛けて来た。「何処から、いらっしゃったのですか?」

「薩摩の坊津です」と、文左衛門。

「そこは、遠いのですか?」

「ええ〜 とても遠い国です。ずっと、東の海に囲まれた、日出ずる国です」御夫人は、文左衛門の言葉に、興味を示して、「ず〜っと、東にも、私の知らない国があるのね。そんな遠い所から・・・」

「皆の夢を積んで、やって来たのです。そして、皆の夢を積み換えて、戻るのです」

「そう・・・皆の夢をお船に乗せて・・・」

「命を賭けて・・・じゃあ、私らはこれで」「ちょっと、待って!良かったら、私の家に来ませんか?色々お話したいの・・・」帰ろうとした文左衛門を止めた。

「どうする? 皆」と、文左衛門は皆を見た。

「行ってみましょう。船頭」「行きやしょうよ。おいらも、話してみたい気持ちでやす」

「分かった。じゃあ、お言葉に甘えて、家にお邪魔させて頂きます」と言って、文左衛門は、御夫人に、にっこりと微笑んだ。

 御夫人達は、馬車をゆっくりと走らせ、文左衛門達は、その後を歩いた。家までは、それ程時間は掛からなかった。

応接室に通された文左衛門達は、それぞれ椅子に腰掛けた。部屋は豪勢な作りで、天井の中央からは、ポルトガルから持って来たと云われる、シャンデェリアがぶら下がっている。テーブルの上や部屋の至る所には、銀のローソクたてが置かれていて、益々部屋を豪華な作りに見せていた。

御夫人が、応接室に入って来て、文左衛門の正面に座った。メイドが、お茶とお菓子を机の上に置いていく。仏閣に御伴をしていた女のひとりであった。メイドは、お茶碗を皆の前に置き終えると、ひとりずつ紅茶を注いであげる。紅茶の香りが、テーブルの上を包み込むように、漂っている。皆は、すっかり紅茶の香りと豪華な部屋に酔っていた。紅茶の似合う部屋だと思った。

「さあ〜 召し上がって」文左衛門達は、注がれた紅茶にミルクを注ぎ、ゆっくりと味わうように飲んだ。

「私の名前は、オリービと言います」御夫人は、自分を紹介して、家のことを話しだした。旦那さんと男の子が二人、女の子が一人いて、大きな農場を経営し、お茶と胡椒を作っている。お茶を生産する工場まで持っていると、自慢げに話した。文左衛門達は、紅茶を味わいながら、黙って聞いていた。

「お天気に、左右され易いでしょ・・・管理するのが大変なの・・・」と言って、オリービは、紅茶を一口啜った。

「ああ〜 それで、胡椒の荷が届かないのですね?私はブンザと言います。こちらが、ゲンシロ、ナオ、ゼンベ、ワラジです」

「ブンザ、ゲンシロ、ナオ、え〜 ゼンベ、ワラジね。オリービよ、宜しくね」「こちらこそ宜しく」と、皆は頭を下げた。

港で荷役人夫として働いていて、積み荷が届かず、その為に、今日は荷役は休みだと告げると。「積み荷が届かないの?」と、オリービは、驚いた顔を見せて、首を傾げた。「どうして、このコーチンに?」

「ええ〜 それというのも、私らはボンベイに向かう途中、コーチンの近くで難破してしまいました。幸い、ジュータウンに住む、コダールという御老人に拾われ、家の離れで生活しております。港の荷役人夫として働き、故郷へ帰る船を探しているところなのです。胡椒の荷が届かずに、こうやって休養と云う訳です」文左衛門達も、紅茶を啜った。

「そうでしたの・・・コダールなら知っているわ・・・昔からの、お得意様よ。今は、息子のラビが、後を継いでいる筈よ」

「そうです。荷役人夫の仕事を、紹介してくれたのも、ラビでした」

「そう」と言って、オリービは軽く頷き、紅茶を一口、美味そうに啜る。

「しかし、荷が届かないなんて、おかしいわねえ〜 今年は、天候も良く、出来は良い筈よ。貿易商達の間では、倉庫に品物を隠しといて、値上がりを待つことがあるのよ。そう云うことは、聞いていないし。刈取が遅れているのかしら?」オリービが知らないところを見ると、何かあったのは間違いないようである。

「今じゃ、南蛮船が、港にひしめくめくように、積み荷待ちしていますよ」と、窓に目をやった。皆も、窓に目をやる。港には、帆を畳んだポルトガルやオランダ船等の南蛮船が、両側から山に抱き抱えられるように浮かんでいる。青々とした海に、白い貴婦人にも似た船体を、浮かべている。

「日出ずる国って、どんなとこなの?」

「綺麗な所ですよ」と、文左衛門は微笑む。「そう」と、オリービ。

「オリービも一緒に、行きませんか?」直吉は、オリービを見た。オリービは、誘われて、嬉しそうな顔をして言った。「あら、ご一緒しても構いませんの?」

「良いでやんすよ。オリービ、薩摩は、そりゃあ凄い・・・」との助蔵に、「何が、そんなに凄いの?」と、オリービは、聞き返す。

「何せ、坊津の港にゃあ〜 明国の船やらがひしめいてやしてね。帆を揚げやすと、町も見えねえくらいでしてね。町を歩きやすと、偉人さん達に、良く遇いやすんで・・・そりゃあ〜もう、大変でやして。町の僧侶達も、驚く始末でして」と、大洞と間違われるくらいに、自慢話を始めた。そうなったら、もう止まらない。文左衛門達は諦めて、黙って聞いていた。オリービも、助蔵の話に聞き入った。助蔵の話に釣られて、オリービは笑う。

オリービにとって、暫らく振りの、それは楽しい一時であった。

 皆も、話の中に入って、薩摩の話、家族の話に、花を咲かせた。難破したこともすっかり忘れていた。楽しかった。

そろそろ帰る時間である。オリービに、お茶のお礼を言った文左衛門は、手を差し出し握手を求めた。オリービの手は、柔らかく温かい。しっかりと握り締めた。

「早く、帰れるお船が、見つかると良いですね。私は、寂しくなりますけど・・・又、何時でも御出で下さい。何か、お役に立てると思います。きょうは、とても楽しかったわ」手を離したオリービは、皆を見回しながら言った。

皆は、「有難う」と言って、深く頭を下げると、オリービの家から外へ出て、ジュータウンに向かって歩きだした。

程よい風が、黙って歩く文左衛門達の肌を掠めて行く。砂浜に漂着してから、色々な人達に出会った。それは、まるで夢のように思える文左衛門である。難破したことが、今だに夢のように思えていた。遭難した乗組員達が、何処かに居るような気がしてならなかった。

 ジュータウンの家に着いた文左衛門は、コダールに会って、オリービの伝言を伝えた。コダールは頷くと、にっこり微笑んだ。

「元気そうだったかい?」と一言、言ったコダールは、窓からコーチンの港を眺めた。昔を思い出したのか、黙って眺めている。

文左衛門も立ったまま、コダールに習うしかない。話し掛けると、悪い気さえした。

数日して、胡椒の荷が遅れていたのは、高値を呼んでいたボンベイに、集中して運んだと云うことが分かった。底値を見せたボンベイに、運ぶのを止めたらしく。コーチンの港にも、賑やかな人夫達の声が戻っていた。

文左衛門達は、毎日、毎日、港に出掛け、荷役作業をしながら、帰れる船を探した。それは、飽きることもなく、繰り返す夜明けのように、根気よく続いていた。

 

       八

 漂着してから、三年の歳月が流れていた。1531年のコーチンは、真夏だった。

文左衛門達は、次の日も次の日も、休むこと無く荷役作業に精を出し、薩摩へ帰れる船を探した。作業の後は、ヒンズー教の仏閣に通うと云った生活が続いていた。明国への帰帆船はあったが、明国との貿易が許されていない状況下では、例え明国に着いたとしても、薩摩に帰るのは困難であった。その為に、薩摩に帰帆する船を探していた。ポルトガル船の荷役作業が始まった。文左衛門達は、荷役作業の列に入り、胡椒の入っている袋を手渡しで、船倉へと運ぶ。

重いと感じていた袋も、今では、胡椒の軽さを覚える。皆は、逞しい腕になっていた。

 笛が鳴り、休息の時間を報せる。文左衛門達は、列を崩して休みに入る。

「この船あ〜 荷役が済んだら、直ぐにポルトガルに帰るらしいぞ」と、善兵衛は、荷役作業が始まる前に、乗組員達から聞いたことを皆に告げた。皆は、薩摩は遠いのおと肩を落とす。

「矢張りのお〜 明国への船に、乗せてもらえば良かったんかいのお〜」と、直吉。

「明国に着いても、待たされるぜ。仕事にありつけるかどうかも、考えもんじゃ」距離が近くなったとしても、恐らく明国では、ずっと待たされる。それよりも、コーチンで辛抱強く待った方が、坊津の船に出会える確立が高いと、善兵衛は反対した。

「善兵衛の言う通りかも、知れぬのお〜」文左衛門は、「きっと、来る。焦らず、時期を待とう」と、皆を励ました。

「ブンザ、仕事が済んだら、今夜は、宴会じゃ・・・来れるじゃろう?」荷役人夫の頭領ガンジイは、文左衛門達の休んでいる所へやって来て、酒を飲む仕草をした。文左衛門は手を上げて、了解する。ガンジイは、時間と場所を告げて、人夫小屋へと入って行った。

 休息を終えて文左衛門達は、荷役作業に入った。容赦なく照りつける太陽を、睨み付けても暑いばかり。積込みは、延々と続く。

荷役作業が終わったのは、夕暮であった。「うむ〜 きょうも働いた」文左衛門は、流れ出る汗を右腕で拭いた。

「暑いのお〜」と、直吉は、荷役人夫小屋に入ると、水を杓で掬い、がぶ飲みする。「ふ〜 うめえ〜」

「ナオ、そんな飲み方したんじゃあ〜 体に悪いぜ。暑いのは分かるが」と、人夫仲間のパリキは、直吉の体を気遣って言った。

「ナオ、宴会には、来るんじゃろう?」

「勿論さ、パリキ。あっしが行かなきゃ、誰が行く。のっ、パリキ」

「じゃあ、ナオ後で会おう」と、パリキは、巻いているターバンを少し直して、汗を拭いた。

「直吉、行くぞ!」と、善兵衛。仏閣にお詣りである。通い慣れた仏閣までの道程は、人通りも少なく直ぐだった。

お詣りを済ませた文左衛門達は、寄り道をすることもなくジュータウンの家の離れに帰った。水を浴び、汗を流して服を着替える。時間の来るのを待って、ガンジイの家に向かった。

宴会は何時も、人目に付かない騒いでも迷惑にならない、ガンジイの家の近くの小屋で行なわれている。待ち合わせの小屋に着いた文左衛門達は、何時ものように、笑顔のガンジイに誘われるまま椅子に掛けた。

人夫の姿とは違って、皆さんは、お洒落である。「酒を飲んではいけない、神仏の教えには逆らえない」と言って、集まる人夫達は少ないが、それでも、部屋の中は、一杯であった。部屋の中は、騒めいている。

 ガンジイが、やって来て、「さあ〜 遠慮なくやってくれ」と、酒を薦める。

文左衛門達は、コップを手に、酒を注ぎ合った。「さあ、パーティーの始まりだ」とのガンジイの合図に、皆は酒を飲みだした。

「この酒は、ポルトガルの乗組員から、貰ったもんじゃ。さあ〜 飲んでくれ」

「パリキ、そんなに貰ったのかい?」と、箱の中に、ウイスキー瓶の十二本入っているのを見て、直吉は驚いた。

「ああ〜 今夜、宴会だと言ったらなあ〜 持って行けと、気前良くこんなにくれやがった」言い終わるとパリキは、酒の注がれたコップを頭上に上げて、乾杯の仕草をした。

「ポルトギースも、良い奴らよのお〜」と言って、善兵衛もパリキに、乾杯の仕草をした。

「ワラジ、未だ帰る船は見付からんのか?」「見つからんのお〜 おいらも、探しているんでやすがね。薩摩の奴らは、コーチンには来んのかいのお〜 ボンベイかのお・・・」「ボンベイ? 行けば良いじゃないか? ボンベイに行けば、来るのか?」

「そりゃあ〜 来るとも言えんし、来んとも言えん」と、助蔵は頼りない返事である。「どっちなんじゃ?」と、パリキ。

「どっちかのお〜」「ええっい、ワラジよ、それじゃあ〜 見つからん」と、パリキは、苛立ちを見せ、舌打ちをした。

 酒盛りは、賑やかに進んでいる。部屋のあちこちには、ひと固まりの集団が幾つも出来ていて、飲む酒も楽しく喉を過ぎる。

「三味線とか、太鼓でもありゃあのお〜」

「ワラジ、踊るのか?」と、直吉。

「踊りたいのお〜 ぱーあっと」

太鼓は、ないのか? と、聞かれたパリキは、「ナオ、太鼓ならあるぜ。ほら、あそこに、向こうの片隅に」と、無造作に置かれている太鼓を指した。

皆は一斉に、パリキの指す方に目をやった。 <あれか?>

「持って来よう」と、言って、取りに行ったパリキは、太鼓を持って戻って来た。

「シン、打ってみろ・・・」と、パリキは、一緒に付いて来たシンに、太鼓を渡した。仲間のシンは、太鼓を両股に挟むと、両手で打ちだした。太鼓のリズムが、部屋を弾けるように駆け巡って、皆の騒めきを止めた。

「ワラジ、踊ってみるか?」と、直吉は助蔵を誘う。

「パリキ、太鼓の音と弾みが、ちょいと違うぞ・・・直吉、替わってみてくれ」助蔵は、太鼓のリズムが違うので、踊り難いと思った。

 シンと、太鼓を替わった直吉は、「シン、桴はないのか? 桴は?」と、桴を持ってきてくれと催促する。

「これは、手で打つのじゃよ。棒なんかじゃあ打てねえ〜」と、シンは、軽く笑った。

直吉は、両手でリズムを打ちだした。シンの打つリズムとは、全く違う、薩摩のリズムである。「うん、なかなか良いのお〜」と、直吉は、低い太鼓の音に、調子づく。

「あっ、さあ。あっさあ あっさあ〜 さあさあさっ〜」と、直吉は、けしかける。助蔵は、リズムに合わせて踊りだした。

「あら、えっさっさあ〜」との掛け声に、両手を上に、左右に振りながら踊る。 善兵衛も、踊りの中に入った。皆は、飲む手を止めて、二人の踊りを見入っている。滑稽な踊りに、笑いを誘っている。

助蔵は、パリキとシンを踊りの中に、引っ張りに来た。「何、俺もかい?」と、言って、二人は、踊りの中に入った。

助蔵と、善兵衛の踊りの動きを、真似て踊る。その、ぎこちない姿は、皆の笑いを一手に受けている。

「これが、薩摩の踊りじゃい」と、助蔵は、踊るパリキの、耳元で囁いた。

「何だ? ワラジ」「いや、何でもねえ」

「あらえっ、さっさあ〜」と、直吉は、掛け声を掛けて、盛り上げる。源四郎と善兵衛が踊りの中に入って、助蔵は交替した。

「鉢巻きはないのかい? ガンジイ、鉢巻きは? どうも鉢巻きをしないと、調子がでねえ〜」と、助蔵は、鉢巻きをする仕草する。

「ターバン? そうじゃねえよ〜 鉢巻き」 自分の頭に巻いているターバンを、指したガンジイに、再度、捻り鉢巻きの仕草をして見せた。捻り鉢巻きをする習慣を知らないガンジイは、理解できないようである。ターバンの代わりになるような布切れを、取りに行ったガンジイは、助蔵に手渡した。

「長いのお〜」と、愚痴りながら、小さく縦に折ると、後で括って鉢巻きをした。

パリキとシンは、疲れたようである。「交替」と言って、手を出して助蔵の手の平を叩く。「よっしゃ」と言って、交替した助蔵は、また踊りだした。

助蔵の鉢巻きに、皆は、ターバンの積もりであると、勘違いしている。鉢巻きを知らない皆は、勘違いする筈である。<ターバンが欲しいのか?巻き方が、分からないようじゃのお〜 誰か、教えろよ。ターバンをあげようかな>と、勝手に連想する。両手を上に左右に、お尻を振る可笑しな踊りに、皆は肩を震わせて笑っては、勘違いした解釈に呟き合う。

「よっし、踊るぞ」と、見ているに人夫仲間を踊りに引っ張る。仲間は真似て、一緒になって踊る。踊りは、皆を巻き込んで、進んでいった。

酒も、程よく胃袋の中に入り、酔いも回って来る。よろめきながら踊る姿に、「何処の踊りじゃい」と、踊りもすっかり崩れている。

「三味線があればのお〜 もっと、盛り上がるんじゃが」と、直吉。

踊る姿を指して、可笑しな奴に、手を叩いて肩を上下に腹を震わせ、大笑いをする。コーチンの港には、今夜も南蛮船が静かに浮かぶ。宴会は、楽しく進んでいった。

一夜明けた朝は、頭が重く頭痛がする。文左衛門達は、二日酔いの頭を抱えて、荷役作業に入った。照りつける陽射しは、容赦しない。

「もう酒など、飲まぬ」と、言わせた二日酔いである。

休息を報せる笛が、鳴った。皆は、荷役の列を崩して、座り込んだり、寝転んだり、お茶を飲んだりと、思い思いに過ごす。

「ところで、皆。こうやって、荷役作業を手伝って、随分金子も貯まった。そこで、相談じゃが、仏閣に、一華堂を設け誕生仏を安置したいのじゃが?どうじゃろうか?」文左衛門は、皆を見回して言った。

「それは、良い事ですね。依存は、ないです」と、源四郎。

「おいらも、良いでやんすよ」と、助蔵。

「仏閣に手を合わすだけでは、供養になるかどうか自信がない」と言って俯く文左衛門に、皆は、「乗組員達の、供養になるのであれば」と、大賛成であった。

「それでは、きょう、御住職に申し出てみよう。分かってもらえる筈じゃで」

荷役開始の笛が、鳴り響く。荷役作業の列に入り、胡椒の入った袋を、船倉まで運ぶと云った単純作業を、文左衛門達は、根気よく汗水流して続けた。照りつける太陽は、二日酔いを、忘れさせてくれる程であった。

 作業終了の笛が鳴り、文左衛門達は、荷役人夫小屋に入った。水を杓子に掬い、がぶ飲みして、喉を潤す。美味い水であった。

「ブンザ、これ」と言って、ガンジイが、文左衛門に、白いターバンを渡す。「えっ」と、驚いた様子で受け取る文左衛門である。

「ゲンシロ、ナオ、ゼンベ、ワラジ」と言って、白いターバンを渡していく。「これを、おいらに?」と助蔵。

「有難う」と、皆は、恐縮して受け取る。

「岩爺、良いのか?」「ああ〜 皆、使ってくれ。おい、巻き方を教えてやってくれ」シンと、パリキは、ひとりずつターバンの巻き方を教えて、巻いてあげる。

「ありゃあ〜 ガンジイ涼しいぜ。こんなに涼しいんだったら、早くに使えば良かったのお〜」と、直吉は、巻いてもらったターバンが、お気に入りである。皆も、「こりゃあ良い、涼しい」と、大喜びである。

『皆は、仲間だ』との、ガンジイ達の友情のプレゼントであった。

 ターバンを頭に纏った文左衛門達は、もうすっかり心はインド人であった。

助蔵は、「我を見よ」と、肩を振って歩く。仏閣までの通い慣れた道程は、文左衛門達をすっかり薩摩のことなど、忘れさせていた。

仏閣に着き、お詣りを済ませた文左衛門達は、住職に会った。事のなりを知った住職は感動して、涙を流した。

「お手前方のことは、僧侶から聞き、遠くから眺めておりました。信仰深きお方達だと、深く感じ入っておりました。どうか、安置なさって下さいまし。お願い致します」住職は、深く頭を下げた。

工事は、直ぐに取り掛かると云うことで、話を決めた文左衛門達は、住職の部屋を後に、ジュータウン目指して歩いた。

見上げる空は、海のように青く、一欠けらの雲が流れて行く。暑い陽射しに、爽やかな風を膚に感じて、皆は黙って歩いた。清々しい、気分であった。

薩摩には、菊の花が咲き乱れている頃である。もう、秋だというのに、コーチンは、まだ真夏のように暑い。何時も、夏であった。

一華堂の建設と誕生仏の作成は、順調良く進んでいる。文左衛門達はお詣りの後に、進み具合を確認するといった具合であった。

「暑いのお〜 これじゃあ、ボンベイの方がまだ、ましじゃのお〜 毎日毎日、こう暑くっちゃあ叶わねえ〜」と、善兵衛は、手拭いで汗を拭く。助蔵も、そうだと頷く。

「ボンベイだって、暑いじゃろう。何処へ行ったって同じさ。竺土ってとこは、そんなものじゃよ。皆、諦めな」と、源四郎。

「もう直ぐじゃのお〜 こんなに、早く出来上がるとは、思わなんだ」文左衛門は、完成間近い一華堂を、見上げるようにして、腕組みをした。

皆も、じっくりと見入った。

「仏像も、二〜三日で完成だとか言ってましたが」源四郎は、文左衛門を見て言った。

「そうか・・・やっと、役目を終えそうな気分じゃのお〜」と、文左衛門は、安堵した声を出す。源四郎も、文左衛門に頷いた。

その日も、矢張り暑かった。一華堂は無事に完成して、誕生仏がそこに安置された。文左衛門達は完成を喜び、住職に引渡しを行なった。仏閣の僧侶達全員が並んで、有り難いお経を唱える。盛大なる引渡しである。住職も殊の外喜んで、感謝の言葉を皆に、ひとりずつ送った。その言葉に、文左衛門達は、目頭の熱くなる思いであった。

「乗組員達に対して、面目がたつ・・・心に刺さっていた刺が、やっと取れたような思いじゃ」と、文左衛門は肩を撫下ろす。

「全くその通りですね。これで、安心して、薩摩に帰れます」と、源四郎。

「おいらあ〜 もう、涙が出て来そうでやすよ・・・おいら達だけ、こうやって・・」助蔵は、言葉に詰まって、後の言葉が何も言えなくなってしまう。

「さあっ、又明日から、帰帆船探しじゃ。気長に参ろうぞ」と、文左衛門は、皆に向かって言った。皆は、軽く頷く。 

仏閣を出た文左衛門達は、ジュータウンへの道をゆっくりと歩いた。水平線には、大きな夕日が、町並みを真っ赤に染めて、何も言わずに落ちて行く。それは、文左衛門達の心の痛みを、知るかのようであった。文左衛門達にとっては、忘れることの出来ない、感激深い一日であった。

 荷役作業は、休みであった。きょうは、オリービの家に、呼ばれている日である。

文左衛門達は、朝から落ち着かないで、そわそわしていた。ぎこちなかったターバンの巻き方も、今では手慣れたものである。

 皆は、お洒落して出掛けた。

家に着いた文左衛門達は、オリービの笑顔に迎えられて、何時もの応接室に通された。テーブルを囲み、飲む紅茶は、また一段と美味い。一口啜った文左衛門は、メイドが置いてくれたミルクを注ぎ入れる。ミルクティーの甘い香りが、鼻を突いた。文左衛門は、カップを手に、口元に運んで、紅茶の香りを臭いだ。皆も、緑茶とは違った紅茶の味と香りを、ゆっくりと味わって飲んだ。

 何時しか話は、インドの童話へと変わっていた。若者が一人で、山奥に住む人の顔を持った悪い獅子を、退治する話であった。

オリービの話しに、皆は、聞き入った。

「そんな、若者がいないかしらね?」話を終えたオリービは、溜め息をつき、呟くと、紅茶を一口啜った。

「コダールは、元気にしている?」オリービは、文左衛門を見て言った。

「ええ〜 とても元気ですよ」

「そう」と、オリービの眼差しは、淋しげに思えた。暗い何かを感じた文左衛門は、思い切って、「オリービ、コダールと何かあったのかい? 何か変だよ・・・」

 文左衛門は、聞いてはいけない事を聞いたような気がして、メイドが、おかわりをしてくれた紅茶を、一口啜ってごまかした。

「分かるの? そう・・・ラザールと私は、愛し合っていたの」「ラザールって?」

「コダールの息子さんよ。私の実家も広い農園を経営していて、コダールは、良く出入りしていたわ。その関係で、私達は、お知り合いになったの。私は、インド人、彼は、ユダヤ人。許される愛ではなかったわ」

 皆は、紅茶を飲む手を止めて、黙って聞いている。文左衛門は、「そう」と、軽く頷いた。

「コダールは、大反対。私の両親も、反対だったわ。そんな時、彼のお友達が、漁に出ないかって誘ったの。気持ちが晴れると思ったのね。漁に出掛けて、嵐に遭ったラザールもお友達も、そのまま帰って来なかったわ・・・・・遭難したのね。探したけど、見つからなかったの・・・・・」オリービの声は、沈んでいた。

オリービは、窓から見える港に目をやった。

「それで、コダールに、オリービのことを話した時、立ち上がったまま、窓から見える港を眺めていたんだね。今の、オリービのように、じっと、黙ったまま・・・」オリービは、「恐らくそうよ」と、文左衛門に頷くと、ハンカチを取り出し、流れ出る涙を拭いた。

「私らが、難破した時、砂浜でコダールに遇ったのは、海を見に行っていたんだね。息子の海を・・・・・・」文左衛門達は、親切にも家に連れて来てくれた訳が、今ようやく分かったような気がした。

「愛する人を、亡くした気持ちは、痛い程、良く分かるよ・・・オリービ」文左衛門は、労わるように言った。

直吉、源四郎、善兵衛、助蔵も、頷いて応える。

「コダールは、二人の愛を、許さなかったことを、後悔しているかも知れないね」

「そうかも知れないわ」オリービは、また涙を拭いた。

「御免なさいね。こんな話を、する積もりじゃなかったのに・・・」

「良いんだよ、オリービ・・・」

文左衛門は、元気を出すように、言った。何不自由なく生活しているオリービは、過去の暗い影を引きずっている。皆は、そんなオリービやコダールに、悲しかった。コダールの苦しい心の内が、見えたような気がした。

<何とかしてやりたい>と、思っても、友達とは名ばかりであった。何もしてあげられない、自分達がそこにあった。文左衛門達の心も、沈んでいた。

「ささっ、皆、そんな顔をしてないでさ、歌いやしょうか? オリービ・・・さあ〜」助蔵は、暗い雰囲気を消すように、笑って見せた。

助蔵の可笑しな仕草で、オリービには笑顔が戻っていた。

 話題を変えて、荷役人夫仲間のことや、オランダ船の話などをして、文左衛門達は、努めて明るく振る舞った。心の中は、とても辛かった。

オリービの家を出た文左衛門達の心は重く、乗組員達の不幸を忘れさせる為に努めて明るく振舞っていてくれたコダールのことが、有り難かった。黙って海を眺めるコダールの姿が、皆の脳裏に浮かんでいた。

皆は、気を取り直し、近くの市場へと向かった。採れたての野菜や魚が並べられて、威勢の良い声が響いている。混雑している人込みを避け乍ら、お店の品物を物色して行く。「船頭! 船頭!」と、呼ぶ声がする。文左衛門達は、声のする方を探した。

「せんど〜う!」と、声の男を見付けた文左衛門達は、驚いた。「まさか?」であった。「船頭!」と、男は、駆け寄って来た。

「六助、無事だったのか!」「へい、船頭もご無事で・・・」と言った六助は、大声をあげて、子供のように泣きじゃくった。

「六助・・・」と、皆も、涙を見せた。

六助は、豊蔵や船長と、木材に掴まって、海を漂っていた。船長は、途中で力尽き、それでも二人は、頑張った。運良く漁船に助けられて、漁師の家にお世話になることになった六助と豊蔵は、恩返しにと、捕れた魚を市場で売り捌いた。売った後、金現丸の乗組員達を、町を歩き探していた。豊蔵は、難破した疲れも手伝って、不思議な病にかかり、高熱を出して亡くなっていた。

「そうだったのか、苦労を掛けたのお〜」

「いえ、とんでも御座んせん。皆、どうしなすったんで、そのターバンに、その姿?すっかりインド人ですぜ」文左衛門は、難破してから、今までの経緯を詳しく話した。六助は、涙を拭きながら、黙って聞いている。時々、頷いている。

「六助、ジュータウンの家の場所は、分かっただろう?」「へい、分かりやす」

「後で来てくれ。それから、荷役作業をしながら、薩摩への帰帆船を探しておる。見つかりしだい、報せるから・・・」

「へい、分かりやした。本当、良かった。もう、誰にも遇えねえと、諦めていたんで」

 文左衛門達は、思いがけない六助との再会に、心が飛んで行く位に嬉しかった。暗い気持ちになっていた文左衛門達に、明るさが戻っていた。

 六助にとっても、思いがけない、待ちに待った皆との、突然の再会であった。

 文左衛門達は、魚を売っている六助と、時々会い、荷役作業の傍ら辛抱強く、薩摩への帰帆船を探した。

 

       九

年は明け、1532年(天文元年)を迎えていた。薩摩では、桜の花も満開であろう。<暑すぎて、コーチンの町には、桜の花なんぞ似合わない。琉球王国に咲く、真っ赤なハイビスカスが、お似合いじゃ>

文左衛門達は、揃って荷役作業に出掛けた。「ブンザ、薩摩の船が入ったぞ」

「ええっ、岩爺、今なんて言ったんだい?」「薩摩の船が、来ていると言ったんだよ」

人夫小屋に入って来た文左衛門に、笑顔を見せた。来る筈はないと、諦めていた源四郎は、「ガンジイ、本当かい?」と、目を丸めて驚いた。直吉、善兵衛、助蔵も驚いた。

「ああ〜 明日から、荷役作業に入る。ブンザ、きょうは、もう良い。船に行ってみるんだな。頼んでみると良いよ」

「岩爺、有難う。そうさせてもらうよ」

「小舟を準備してある。それを使え」

文左衛門達は、ガンジイにお礼を言うと、準備してくれた小舟に乗って、薩摩船へと向かった。ゆっくり帆走して、近付いて行く。幸臨丸という文字が、船体に書かれてある。知り合いの船長が乗船している、坊津の船であった。船名の如く、幸運であった。

 幸臨丸に近付き、直吉は舟の帆を畳む。

横付けして、「おお〜い!」と、叫んだ。当直の見張りが、舷側から顔を出した。

「船長は、居るか?」「ああ〜」

 見張りが、投げてくれた縄梯子をよじ登って、上甲板に着いた文左衛門達は、当直の見張りに、船長室へと案内されて行った。

「驚きました。こんな所で遇えるとは」

 行方知れずとなっていた金現丸の乗組員達が、目の前にいる。船長は我が目を疑った。

「皆、心配していますよ」と、船長は、椅子に掛けた文左衛門達を、一人ずつ、じっくり見るようにして言った。頭にはターバンを巻き、見るからにインド人である。

文左衛門は、今までの出来事を詳しく船長に話して聞かせた。船長は、頷きながら、黙って聞いている。「そうでしたか」と、一言言って、船長は溜め息をつく。

胡椒とお茶を積み終えたら、明国へ向けて直ぐに出帆すると、船長は話してくれた。坊の浦まで、送ってくれると約束を交わした文左衛門達は、帰帆する準備の為に、幸臨丸を後にして、桟橋へと向かった。人夫小屋に着いた文左衛門は、薩摩に送ってもらえることを、ガンジイに報告した。

ガンジイは、「嬉しいことだが・・・ブンザ寂しくなるなあ」と、深い溜め息をつく。

「直吉、善兵衛。このことを六助に、直ぐに報せてくれ。家で、待っている」

「分かりました」と言って、ガンジイに挨拶を済ませ、直吉達は市場で魚を売っている六助の所に報せに走った。

文左衛門達はコダールに報せる為に、人夫小屋を出た。今までずっと、影で見守っていてくれたコダールに、誰よりも先に報せたかった。

ジュータウンの佇まいが、文左衛門には、明るく思える。静かで、小鳥の囀りが、遠くから聞こえて来る。コダールの家に着いた文左衛門は、ドアを叩いた。

「あら、今日は早いわね。お仕事は、どうなさったの?」ハーパは、早く帰って来た文左衛門達を見て、「何かあったの?」と、心配する。

「いや、何もない。嬉しい報せです」と、微笑む文左衛門達を、ハーパは中に招いた。

 コダールは、居間の椅子に腰掛けている。突然の来客に、驚いた表情を見せた。

「ブンザ、どうした? こんなに早く、事故でもあったのか?」と、コダールは、心配した表情に変わった。「まあ、掛けて」コダールは、手招きをして椅子を薦める。

「コダール、薩摩に帰る船が見付かった」

「サツマに?・・・帰るのか?」

「帰らなければならない。家族や友人達が、待ってくれている」と、文左衛門は椅子に腰掛けると、静かな声で言った。

「寂しくなるのお〜 折角逢えたのに、お別れとは・・・何時、出帆かい?ブンザ」

「積み荷が、済みしだい直ぐに・・・明日から、荷役作業が始まる」と、文左衛門。

「もう、会えなくなるのか?」コダールは、悲しい目を見せた。

「いや、又会える。必ず戻って来るよ。コダール」

「そうか、戻って来てくれるか? ブンザ」「勿論だとも、コダール」と、文左衛門も源四郎達も頷いて、コダールに微笑む。

その笑顔に、コダールに明るさが戻った。 

その頃、直吉と善兵衛は、青空市場に六助を探していた。お店の長い列が並ぶ。

「六助、商売は、どんな具合だい?」六助の魚屋を見付けた直吉は、近寄り声を掛けた。六助は、「まずまずよ」と、大きな魚を掴んで頭上に上げ、二人に見せた。

「六助、薩摩の船が、港に来ているぞ」

「何じゃと? 直吉」「薩摩の船じゃよ」「ええっ、あっしら、帰れるんかい?」

「そうよ、荷役作業が済みしだい、直ぐに出帆じゃで、準備しておいてくれ。船頭からの伝言じゃ。あっしらの、寝ぐらに来てくれ」

「ああ〜 分かった。今夜にでも、引っ越すとするか。後で行く」と、帰る準備をしだした。こうなったら、魚なんぞ売っている場合ではない。恩返しは、十分とはいかないが、満足できる程度に、やってあげた積もりである。売上金の全部を、女将さんに渡し、家計を助けてきた。このお店は、女将さんに譲ろう。六助は、早く帰って報せたかった。

「じゃ、六助」「うん、有難うよ」

文左衛門達はハーパを囲んで、紅茶を飲みながら、薩摩で待っていてくれる家族のことを話した。コダールは、嬉しそうに頷き、話に聞き入っている。

<何処でも同じだな。家族の幸せは、一緒に寄り添い合って生活することかも知れない。離れ離れや、遠くへ行ってしまうと、幸せも逃げてしまう。そこには悲しみと寂しさだけが、押し寄せて来る>コダールは、ハーパが注してくれた紅茶をゆっくりと啜った。<ブンザ、帰るが良い。愛する人達の許へと帰るが良い。幸せは己の手で掴み取るものじゃよ>

「皆が、居なくなると、私の心も、空白になってしまうわ・・・ブンザ・・・ここに、目に見える物を、残して行ってくれないかしら?」

残してくれたのは、目に見えない想出ばかり。皆がくれた、優しさや、思いやりが心を突き刺すくらいに、ハーパは、別れがとても辛く悲しかった。

「目に見える物ねえ〜」と、文左衛門は、考え込む。「じゃ、これは?」と言って、左腕にしていた数珠に手をやった。

「そう言う意味じゃないのよ。ブンザ」

「ああ〜 そうか・・・行くなって・・・うむ・・・・・」

「ハーパ、また会えるじゃないか・・・これが、最後の別れじゃないぜ・・・」と、源四郎も、悲しむハーパを見るのが辛かった。別れが辛かった。

「そうでやすよ、ハーパ。船で帰って来られるやないの? だから、笑顔で送ってくんない」助蔵はにっこり笑って、ハーパに握手を求めた。ハーパも笑顔で、「きっと、またお船に乗って。良いい」と、握手に応じた。

「約束するよ」と、皆はハーパに頷いた。

報せなければならない所は、まだあった。オリービに仏閣の御住職である。文左衛門達は、直吉と善兵衛が帰って来るのを待って、オリービの家に向かった。突然の訪問に、オリービもまた、驚きを隠しきれない様子であった。応接室に通されて、何時ものようにメイドが注してくれた紅茶を啜る。

 帰国の目処がついたことを知ったオリービも同様に、悲しい顔を見せて、きっとまたインドに戻って来るように、約束をさせた。

帰帆する前に、もう一度、オリービの家に立ち寄ることになった。笑顔で、玄関まで送ってくれたオリービに、皆は笑顔で応えて、挨拶をすると、仏閣に向かった。自分達を、必要としてくれていることが、痛い程良く分かる。<帰りたくもあり、帰りたくもない>と、複雑な心境であった。辛い笑顔であった。

 仏閣に着いた文左衛門達は、住職に面会を求めた。住職が皆の前に現われたのは、待たせることもなく直ぐであった。

薩摩に帰る船が見付かり、帰国の途につく事を聞いた住職は、殊の外喜んでくれた。

 住職は仏閣に安置されている、誕生仏金像の中の一体を、与えると申し出た。

「ええっ! 何故、私どもに?」

仏閣へ差し出すことはあっても、仏閣の方から名も無き者達へ、物をくださる話は、聞いたことがない。文左衛門達は、驚いた。

「信仰深きお方達の許へ安置致す方が、宜しいかと思います。是非、お連れ下され」住職は、目を瞑り手を合わせた。

「分かりました、それ程までに、仰るのであれば、喜んでお連れ致しましょう」文左衛門は、深く頭を下げた。皆も、住職に、深々と頭を下げた。

誕生仏は、数日後に、運び出すと云うことになった。

 一夜明けたコーチンの港は、貿易船で埋め尽くされた如くに、ひしめき合っている。

荷役を待っていた幸臨丸は、接舷して荷役作業に入っていた。ブンザ達の居ない荷役の列は、人夫仲間のガンジイ、パリキ、シン達には、とても寂しく冗談も言えない程である。そんな荷役作業は、順調に捗って行った。

ジュータウンの佇まいは、華やかさは無く小鳥の囀りが、きょうも聞こえている。人夫仲間達の寂しさを余所に、文左衛門達は、心に刻むかのように、町並みを歩いた。すれ違う子供達が、「やあ〜 ブンザ、ゲンシロ、ナオ、ゼンベ、スケゾ、ローク」と手を上げて、声を掛けてくれる。子供達にも、皆は、人気者であった。

出帆を控えて、コダールの家で食事に呼ばれていた文左衛門達は、何時ものようにハーパに迎え入れ家に入った。ハーパの美味しい手料理をご馳走になり、話に夢中になった。ラビや二人の子供達も一緒の賑やかな楽しい会食である。コダールもハーパも、帰帆することを、今では、「荒れる海の長い航海だから、気をつけるように」と、勇気付けてくれる。そんな励ましが、文左衛門達には、有り難く嬉しかった。しかし、別れを知った皆は寂しかった。

 次の日は、オリービの家で文左衛門達の送別会であった。初めて会う、オリービの旦那は、快く迎えてくれる。

「あれが、旦那か? 色男だのお〜 オリービの好みが、分かったぜ」と、お見合いだったとも知らず、直吉は手で掴む料理を、口元に運ぶ。メイドが、他の料理をテーブルの上に置いていく。子供達の目は、透き通っていて、オリービにそっくりだと、文左衛門は言った。その言葉に、オリービは微笑む。

男の子二人に女の子一人の五人家族で、メイドを二人も抱える、裕福な家庭である。会話は、子供達を包み、笑顔をくれる。何気ない会話の、楽しい食事であった。オリービ達に、お礼を言って別れを告げた文左衛門達は、町並みを歩いた。

水平線には、大きな夕日が落ちようとしている。文左衛門達は、コーチンの町を、初めて歩いた日のことを、町を染める夕焼けに思い出していた。

 幸臨丸の荷役作業は、次の日の昼前には、全て終わって、出帆を待つのみであった。

文左衛門は、ガンジイに頼んでおいた仏像の積込みを早速、行なうことにした。ガンジイやパリキ達仲間と、仏閣に出掛けた文左衛門達は、住職に会った。どれでも、仏像一体を選んで欲しいと住職は、告げた。

「何? どれでも構わないのか?」

「ああ〜 ガンジイ、選んでくれ」

「そうよのお〜」と言ったガンジイは、大仏の側に座る仏像を、「これが良い」と、指した。「布で包め」と、指図したガンジイに応えて、人夫達は誕生仏金像を包みだす。包み終えた仏像を、皆で抱え上げて、荷馬車へと運ぶ。文左衛門達は、住職にお礼を言うと、船の待つ港へと向かった。

 幸臨丸への誕生仏金像の積込みは、訳無く行なわれ、嵐に遭っても移動しないように上甲板に固定された。

「よーし、きょうの荷役作業は、全て終わりじゃ!」と、ガンジイは、人夫達に叫んだ。「岩爺、有難う」「なあ〜に、こんなこと、お易い御用さ。明後日、出帆だろう? ブンザ、今夜は宴会だ。来てくれよ」

「分かった。皆して行く」

部屋の中は、騒めいていた。荷役人夫仲間達は、既に集まって、文左衛門達の来るのを待っていた。部屋に入った文左衛門達を、真ん中に招いたガンジイは、ブンザ達が、薩摩に出帆する為の祝宴だと挨拶をした。ガンジイは、「ブンザ、ゲンシロ、ナオ・・・」と、一人ずつ目を見て、「いつまでも、元気でいてくれよ・・・・・」と、手を握り締めた。「有難う」と言って、文左衛門達は言葉に詰まったガンジイの手を、取り合った。

 幸臨丸から貰って来た酒樽を割って、これが薩摩の酒だと振る舞う。

「なに、これが薩摩の、サキか」と、皆は、杓子に掬って飲んだ。がぶ飲みである。助蔵と六助は、直吉の太鼓のリズムに合わせて、愉快に踊っている。

「ゲンシロ、美味いのお〜 このサキ」一気に飲み干したガンジイは、助蔵と六助の踊りの中に入った。滑稽なガンジイの踊りに、皆は笑っている。

助蔵と六助の踊りも、シンのぎこちない薩摩の踊りも又、笑いを誘っていた。皆は時を忘れて、酒を飲み交わし踊った。笑い、ふざけ合い、愉快に飲んだ。

『いつでも、戻って来いよ』肩を叩き、口々に、言ってくれる。

何時また、一緒に飲めるか分からない。文左衛門達は、腹の裂けるくらいに飲んだ。それでも、酔いたい程に酔えなかった。

薩摩へ向けて、出帆の日である。

出帆準備は、既に整っていた。コダール達に別れを告げ、幸臨丸に乗船した文左衛門達は、上甲板に立って、コーチンの町を眺めた。

ガンジイ達は、荷役の手を休めて見送りに来ている。文左衛門は、ガンジイ達に手を振った。ガンジイは、頷き手を振って応える。

船内に、銅鑼の音が響いた。「錨を上げ〜い」との、船長の号令に、錨は上げられ、船はゆっくりと陸を離れ動きだす。人夫仲間達も、手を振っている。

船首を、沖に向けたのを確認した船長は、「帆を揚げ〜い」と、叫んだ。復唱の声と共に、帆が揚がった。全帆は、風を受けて、一杯に膨らんでいる。スピードが少しずつ増してくる。幸臨丸は、停泊している他の貿易船を避けながら、出帆して行った。

コダールは、帆を一杯に張って、だんだん遠ざかる幸臨丸を眺めていた。目の前から小さくなって行く姿に、文左衛門達との楽しかった日々をだぶらせていた。<ブンザ、想出を有難うよ。また、いつか会おう。帰ってこいよ、ブンザ> 大粒の涙が、想出と一緒に溢れ出ていた。見送るハーパの頬にも、涙が光っていた。文左衛門達にとっては、コーチンの町に、大切な忘れ物をしたような船出であった。

 幸臨丸は、波を切って進んで行く。

港を遠く離れ、コーチンの沖に来た。上甲板に、銅鑼の音が響いた。嵐で遭難した、金現丸の乗組員達を、供養する銅鑼の音である。

皆は、手を合わせると、目を瞑り祈った。文左衛門の目からは、涙が零れ落ちて行く。源四郎、直吉、善兵衛、助蔵、六助の目からも、大粒の涙が零れている。

       <風を仰いで>

    あなたの涙を、海に流し

     風を仰いで

       祈っても

      愛した日々は

       もう、返らない

 

    あなたの微笑み、星と添えて

     風を仰いで

       愛しても

      愛する人は

       もう、戻れない

 

    あなたの想いで、船に乗せて

     風を仰いで

       悔やんでも

      愛した心

       もう、届かない

 

 文左衛門達は、何処までも広がる青々とした憎い海に、手を合わせて祈った。

仲間の乗組員達を、一瞬にして飲み込んで行った海を、いつまでも、いつまでも見詰めていた。

コモリン岬を躱った幸臨丸は、スリランカはコロンボの沖を南東へと通過して、コバル諸島を目指し、東へと帆走する。

マラッカ海峡で、恐らく待ち伏せをしている海賊達と、一戦交える覚悟だと言う船長達を、文左衛門達は説得することが出来ずに従うしかなかった。

誕生仏金像もご一緒で、守って下さるだろうと半ば諦めて、気の遠くなりそうな長い長い航海に入った。インド洋を、東へと帆走する。

グレートニコバル島を、左舷に見て通過した幸臨丸は、マラッカ海峡に入った。

武器を手に、海賊の出没を待ちながら、帆走する。船内には、緊張が走っていたが、幸い、海賊の出現はなく、無事にマラッカ海峡を通過した幸臨丸は、乗組員達の休養を兼ねてシンガポールに入港した。乗組員達に十分な休養を取らせ、食料と飲料水を補給して、コンドル島を目指し、北東へと向かう。

 コンドル島から、ベトナムの沖を北上し、ハンナン島を左舷に見て通過した幸臨丸は、明国を目指し、海岸線に沿って帆走する。

 台湾海峡を通過して、寧波へと向かった。明国の取締は、一段と厳しくなっている。肝を潰しながら、入港して行った。

竺土からの船である。荷役作業が終了したら、再び竺土に戻るという理由で、幸い、明国の臨検は、問題なく通過することが出来た。寧波での荷揚げは、順調であった。無事に積み荷を降ろして、積込み作業に入った。布、綿、化粧品、陶器等の積込みを終えた幸臨丸は、寧波を出帆して、坊津へと向かった。

琉球王国への停泊は避けて、直接坊津を目指す、難しいとされる直行路である。

 幸臨丸は、東シナ海を斜めに、北東へ横切るようにして、帆走する。全帆は、風を受けて大きく膨らみ、波を切り進んで行った。

「船長! 陸が見えます」と、マストに登っている見張りが、大きな声で叫んだ。皆は、船首の方向を一斉に見た。見慣れた海岸線が、見えている。薩摩半島であった。「おお〜い! 見えるぞ、薩摩だ!」

文左衛門達は、船橋にあって、目の前に迫り来る薩摩半島を眺めた。四年振りに見る、懐かしい陸地であった。青々した海と滲みゆく海岸線は、何も言わず迎えてくれる。文左衛門達は、風を仰いで、手を合わせた。曇ひとつ無い、晴れ渡った空に、白い一羽の鳥が横切って行く。潮騒は、止む事無く、優しく彼らを迎えていた。金現丸での楽しかった想出が、頭を過る。嵐で失った友の顔が、ひとりひとり現われては消えていく。止め所なく流れ出る涙を、文左衛門、源四郎、直吉、助蔵、善兵衛、六助は、押さえることさえ出来なかった。

 帰帆を果たした文左衛門達は、向井覚右衛門や住民達から、涙の歓迎を受けた。

向井覚右衛門に相談した文左衛門は、竺土から持ち帰った誕生仏金像を、一乗院に奉納することした。誕生仏金像は、覚右衛門達の手で、文左衛門達の出席をもって、一乗院に安置された。住職や僧侶達が全員出席する、盛大な奉納であった。

奉納を終えた文左衛門は、坊の浦を眺めながら、胸一杯息を吸った。悲しみなど知らないであろう程良い風が、文左衛門達の前を、掠めるように過ぎて行く。

「さて、源四郎、次の航海を練るぞ」

「船頭、もうですか? まだ帰って来たばかりですよ」と、源四郎は愚痴る。

「そうですぜ、船頭、のんびりと、のんびりと行きましょ。のんびりと」と、直吉。

「そうでやんすよ。全く・・・」と、助蔵。 

坊の浦には、きょうも、貿易船が勇姿を浮かべている。何処へ行くのであろうか?異国への夢を乗せて、浮かんでいる。

 文左衛門は、もう明日を歩いていた。

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